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アルメニア
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エレバンにいるのはもう二日間なのに、夜の散歩以外にはエレバンの見所はまだあまり見えなかった。
今日はエレバンでの最後の日だから、今日この町を観光しようとした。だが、その前には
エチミアツィンというアルメニアの宗教的な中心へ行く予定だった。
前の夜にアナイトさんと同じ所に泊ったドイツ人と話したとき、やはりア私達のアルメニアでの滞在日数は
とうてい足りっこないと確認した。特にエレバンの周辺には見所が多いので、本日はガルニの寺とゲグハード城
またはエチミアツィンの教会を観光するという選択肢があった。アナイトによって、その三つの場所ともは
絶対見なければならないところだ。だからしょうがなくてその後エレバンを観光するために時間が残るように
エチミアツィンだけを見に行こうとした。エチミアツィンという小町はエレバンに近いから、
バス・ターミナルではなくて中心からバスで行ける。バスを見つけた後、高速道路を走って途中で左手に
アルメニアの国際空港が見えた。その高速道路はアルメニアで始めて見たの穴があまり空いてない道路だと
すぐ気づいた。道路沿いには無数の自動車修理工場がある。それは貧乏な国の共通点だ。アルメニアの車はたいてい
古くてよく損害を被るので、沢山の人は車の修理で暮らしを立てるが、競争はひどいから儲けは悪そう。
そうしているうちに、イエスはグレゴリウスの夢枕に立って、教会を作るはず場所を見せた。それに従った、 グレゴリウスは「神から精神に光を与えられたグレゴリウス」になった。同時に、現在の「エチミアツィン」という名前が 出てきた。その名前の意味は「唯一の生み出された人(いわゆるイエス)の下降」ということだ。クリスト教が を改宗した前には、アルメニアでは他の民族と同じくアニミズムの異教的習慣があった。そういう習慣を消すためには 最初の教会はアルメニアで異教的礼拝の場所の上に作られた。だが、その礼拝の場所は完全に崩壊されたわけではなく、 部分的に残っている。しかも様々な前キリスト教の異教的習慣はキリスト教化を生き抜いて統合されたので 現在にも特別なアルメニアのキリスト教派がある。 キリスト教が導入された以来、エチミアツィンは神聖なところの多いアルメニアで一番神聖的な場所だと言える。 因みに現在のトルコの領地にもアルメニアの神聖な場所がある。そのうち、アニというカルスとアルメニアの国境に近い 場所は一番有名だ。そこには、無数のアルメニアの教会の廃墟がある。 エチミアツィンに着いた後、すぐある教会に入った。中には、ミサ聖祭が行われた。しかし、アルメニアの場合には その「ミサ聖祭」の言葉の一番大切な文字は「祭」だと気づいた:左側には男声合唱団、右側には女声合唱団があって、 交互に宗教的な歌を謡った。皆は壮麗な衣服を着てこのミサを本当に大事にするとわかった。祭壇の前には様々な 宗教的かつ歴史的な場面が上演された。綺麗な衣服を着る僧侶は色々な聖式を行い、中世期のスペインの異端審問官 に似ている修道士達は内陳を通り抜けた。そしてあちこちにある吊り香炉から乳香の煙が立ち昇っていた。
公園から出すと、建築学的に面白い大きなビルが見える。ベルリンの有名なコンサート・ホールに似ているが、それより何倍 大きな建物だ。近づくと、それは文化専用の建物だとわかる。残念ながら、その文化ホールはぼろぼろしている。 埃だらけの窓はあちこちに壊れて、扉は応急に閉鎖され、前面などもぼろぼろしている。それを見た私は、あんな建物は 絶対もう使われていないと思ったが、民宿のアナイトさんによって、中にはコンサートなどのイベントがまだ開催されている。 こういうふうな文化ホールは社会主義の特徴だ。ロシア・ポーランド・旧東ドイツなどの昔の社会主義の国々でどこにもあるが、 その大きな建物の整備は高いので社会主義の滅亡と共に沢山の文化ホールはぼろぼろになった。 夕方7時には、二日間前知り合った元気すぎるアルメニア人の若者との約束があったので、私達は6時になると宿泊所に 戻った。名前はモムギオンで、私が泊る家に来ると言った。会う前に宿泊所でちょっと寛ごうとしたが、 彼が着いてきたのは6時半前だった。彼は歴史を勉強して、特にヨーロッパと東アジアの歴史に深い興味があるといった。 話ながら彼は必死に英語で喋ってみる。だが、その英語はちょっと分かりにくくておかしい。私は彼の能力をちょっと テストしようとして英語で「ドイツの始めての皇帝は誰だった?」と聞いてみた。彼はすぐ答えて、その答えが合ってた。 もっと話すと、ドイツは話題になってきて、そのときに英語で「ジャーマニ」と言ったが、彼は「えっ?何?」と 言った。彼は不思議なことにその前に使った「ザ・ファースト・ジャーマン・インペラートル」を最初から分かったが、 「ジャーマニ」という言葉は初耳だったらしい。こういうふうな話はずっと続いた: "Germany!" "What?" "Germany! German country!!!" "Sorry, I no understand! Little English!"…確かに!だからもう我慢できなくてロシア語で言ってみた: "ゲルマニア!" …そして: "はいはい、ゲルマニア!それは英語で「ジャーマニ」って呼ぶでしょ!" 謎! などなど。選択的な知恵だ…こういうふうに話すとかなり早く疲れてしまうと気づいた。 7時になると私達は出発してまず上述のカスケードという段滝を上る。遠くから見てもでかいなと思うけど、上るのはかなり時間 かかってやっぱり悪趣味の建築物だと認めた。しかも未完なので中々社会主義の墓地だという考えが出てきた。
もっと歩くと、「アルメニアの母」と呼ばれている膨大な彫像についた。丘の上にあるので、そこからの町への眺望はとても きれいだ。背景にはアララト山が見える。隣国のトビリシに立ってある「グルジアの母」(→第5日) と対照的に、「アルメニアの母」は残念ながら手に刀しか持っていない。しかもその彫像の台座の周りには様々な軍機や戦車など みたいな武器がおいてある。それを見ながら雨が降り始めて、それに加えてお腹が空いたからそろそろ夕食を食べようとした。 彼に都心にある素朴なレストランを案内してくれた。 そこに働いている若者の女性達は私達にかなり興味がありそうだ。そのため、彼女達は私達の同行者に色々なことを訊いた。 しかも彼女達は恥ずかしそうであまり私達と直接に話さない。彼は明らかに自分に向けた注意を味わっている。悪い かもしれないけど、それをみると疑惑が芽ばえる。もしかして彼はただ衒うために私達と知り合ったという疑惑だ。 そのレストランで、アルメニアの伝統的な料理もピザも食べたが、そのピザは非常にまずかった。当然ながら案内してくれた人を 奢ろうと思ったが、彼はそれは当たり前だと思っているらしかった。私達と彼の勘定を一緒にして払ったが、「ありがとう」みたい な言葉を言ってくれなかった。食べて後に彼をできるだけ早く追っ払いたかったのでまず宿泊所に帰るということを発表した。 彼は「道がわからないでしょ?だから一緒に行きます!」と言っててらてらした。まだか…要するにまた一緒に歩いて、 彼はいつも道路や交差点などを渡ったときに、「Now go!」とか、「Stop!」、「Come here!」などの短い命令を出した。しかも、 私はそういうことについてもう驚かなかった。途中でキオスクを見つけて、アナイトに餞別としてワインの一本を買いたかった。 彼はワインのことを分からず色々なことを説明してみたが、私達は結局約300円でアルメニアで比較的に高いワインを買う。 私は店の人に「これでお願いします」と言いたかったが、同行者に遮られ、「一体誰に上げるものですか?」と聞かれた。 「民宿のおばさんに」と答えた後、彼は「そうか、女だ!じゃ、そうすると安いワインでいいじゃん!」と言ってしまった。 とにかく民宿に着いたとき、私達は彼にさようならと言って、ほっと息をついた。一応優しい人だったが、かなり怪しくて 神経を疲れさせる人だった。ちなみに他のアルメニア人は絶対彼について同じことを考えていると思う。 残念ながら、それはアルメニアでの最後の夜だった。やっぱり短すぎる滞在だった。私達は夜にアナイトさんと四方山の話をして 、またアルメニアへ行かなければならないと気づいた。 |
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