第 1 日
+++ご注意:この旅行記は2001年のものなので、旅行記?・?の前に書かれた。情報は2001年現在+++
ハレ → ミュンヘン → ザグレブ
Halle→München→Zagreb
旧ユーゴへ!様々な中近東やアジア、西欧などへの旅行の後、久しぶりにバルカン半島への旅行を計画した。旧ユーゴスラビアの諸国は目的地だ。1989年前、旧東ドイツの人民としてユーゴスラビアへ行くのは禁止された。再統一のおかげで行けるようになったが、色々な狂ったユーゴスラビア人は脆くて強制的に組み立てたユーゴスラビアを喧噪を極めて解体することを決めたから、旧ユーゴへ行くのはあまりお勧めじゃなかった。
飛行機は便利だが、列車だけで本当に移動したという感じがするので、できる限り列車で行きたいと思った。しかし2週間半しかなかったから、クロアチア・チケットという割引券にした。それは往復二人で250ユーロ位だったけど、それでハレ市から簡単にスプリットという町へいけた。残念ながら行くルートは帰るルートと同じだという条件あるけど、途中で降りたり乗ったりするもできる。私たちのスプリットからのルートは全く分からなかった。まずスプリットへ、その後はフリースタイル。
ザグレブの聖シュテファン大聖堂 |
ある日の真夜中の後、まずミュンヘン行き夜行に乗った。その夜行は思ったよりよかった。ベッドがないが、席は広くてとても便利だから眠ることもできる。そのおかげで時間が経つのは早くてミュンヘンに朝7時前着いた。そこには30分ぐらいの乗り換え時間しかなかった。続いて、EC という急行でオーストリアのアルプス山脈を越えてザグレブ方面へ進んだ。天気はよくて景色は綺麗すぎたから睡眠不足を取り戻せなかった。ヴィラッハというオーストリアの町で列車が分裂されて、スロヴェニアの国境に近づいた。長いトンネルを通過した後、スロヴェニアを入国した。お初の旧ユーゴだ。
イエセニツェという国境の町に列車はかなり長く泊まった後、運転を続いた。列車は川沿いの深い谷をたどって、ドイツのドレスデンの周辺の景色に似ている。しかしこの辺は石灰ばかりだ。村々や通り、鉄道駅などは少し東ドイツのようだ。午後2時ごろ、リュブリャナに到着した。この町も見学したかったが、それは旅行の最後の目的地になると決めた。続いてまた綺麗な景色を横断して、いつかクロアチアの国旗がみえた。えっ、もう国境を越えた?
すぐ後やっとザグレブに着いた。次に荷物をコインロッカーに入れて町を観光しようとした。駅の構内はお粗末、駅前の広場はとてもよかった。ザグレブは観光客があまりいない雰囲気はとてもよい場所だ。暗くなるまで、数時間町を歩いてできるだけいっぱい見学した。夕闇に駅に戻った。そこには、様々なジプシーの子供たちは『タバコチョーダイ!』と言った。私たちの列車は23時前出発するはずだった。車室には年をとったクロアチア人が座ってタバコを吸った。『ここは禁煙だよ』と身振り手振りで説明した。別にいいけど、この車室に寝るはずだから煙は要らない。言葉はあまり通じなかったけど、それでも仲良くなった。一緒にビールを飲んで、車掌とも色々を話した。今まで優しい人ばかりに遇ったから最初の印象はとてもよかった。
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第 2 日
Zagreb → Split → Brač → Split
6人専用の車室にはクロアチア人のおじいさんと私たち二人しかいなかったから、ちゃんと眠れた。それは列車の中の二番目の夜だった。起きたとき、朝焼けを浴びたダルマチアの海岸が見えた。8時前、列車は長いトンネルを通ってスプリットの駅に到着した。降りたすぐ後おばあさんたちが近づいてきてプライベート・ルームを提供した。クロアチア語できないから、ロシア語で答えてみた。
ディオクレティアヌス宮殿の隣の深夜市場 |
二つ、三つの言葉を言い出した後、『ああ、クロアチア語ができますね!』と言われた。そんなことないけど、一応ロシア語の単語は少し通じるのはありがたい。それ以外は思ったとおりドイツ語が英語より通じる。 『いくら』と聞くと、『何泊ですか』という反問があった。『一泊だけ』と答えると、相手の顔には暗い影がさした。最初の人は40ユーロと言って、他の人は30ユーロと言った。それは中々高いが、シーズンだからそういうもんだ。しかも部屋は中心に近かった。
シャワーを浴びてさっぱりした後、また外に出た。かなり暑かったから町を観光する気があまりなかった。その代わりにフェリーで一番近い島へ行こうとした。そこには無数のツーリストがビーチで手足を投げ出して肌を日にパリパリ焼いた。それはあまり見たくないが、島の背後はそれより面白い。それでもこの島は一日間以上過ごしたくないとすぐわかった。帰るときにフェリーを歩いて、何でも日本語で書いてあると見た。このフェリーは日本→シンガポール→インド→エジプト経由クロアチアまで運航したのかな。スプリットにも観光客が当然ながら多い。その理由は特にローマ時代のディオクレティアヌス宮殿だ。旧市街は素晴らしくて多様性の場所で、色々な面白い史蹟がある。通りの石灰は鏡のように光って、上を見ても下を見てもまぶしい。西方にある山を登って、夕暮れのときに町全体とその周辺がみえた。サボテンや温和の夜などは地中海どおりだ。夜になったとき、イタリア料理のレストランに入った。実はクロアチア料理のレストランはかなり少ないと気づいた。スタッフはとても親切だったが、その親切さは耄碌さだけに凌駕された。今まで気づいたのは、人はどこでも優しい。それはレストランや店などのスタッフを含んでいる。
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第 3 日
Split → Dubrovnik
大至急、火縄に火を!!! |
ドブロヴニク行きバスは朝8時半に出発するから、かなり朝早く起床してイタリア風の美味しいエスプレッソを飲んだ後にスプリットから離れた。クロアチアは完全にイタリアのエスプレッソの企業に占領されたと言ってもいいだろう。バスはほとんど満席で、観光客ばかりがいる。それは驚くべきじゃない。アメリカ人や日本人、そして特にドイツ人がたくさんいる。私たちの前に座ってるのは子供付きドイツの家族だ。彼は学生の様子をして、唯一の乗客として上半身裸になっていた。バスの運転手もクロアチアの乗客もそれに賛成しなくて『シャツを着なさい』と頼んだ。しかしあいつは『暑いよ!シャツを着るために暑すぎる!いいじゃん!』と喧嘩を売ってみた。こういうふうな議論はずっと続いていた。彼は一体何を考えてるのかな!?他の乗客は変温動物だと思ってるのかな。子供がいなかったらあいつを痛い目にあわせたかった。
ダルマチアの海岸はやっぱり素晴らしくて、到着したときに運転がもう終わったのは残念だなと思った。ドブロヴニクのバス・ターミナルで降りた後、スプリットと同じ芝居が始まった。ペンションなどの客引きの人、それは大体おばあさんたちだ、が走ってきて宿泊所を提供した。あるエレガントなおばんさんは狙いの定まったように私たちに近づいて、民宿をオファーした。すごいいい人らしいからすぐそれにしようと決めた。数百メートルを歩いた後に立派なビラの前に止まった。その古くて大きいビラは陰地の庭に囲まれ、数匹の猫が遊んだりなどをした。素晴らしいペンションだと気づいた。庭にはテーブルと椅子もあるから、夜になると他の旅行者と家族のメンバーと話し合えるのはありがたい。天国をみつけた気がした。無数の猫以外には『比例犬』もいた。その犬はちょっとかわいそうだった・・・
ドブロヴニクについては一言も書く必要ない。この町は中世期のままの都市として世の中でかなり知られているところで、ドブロヴニクはその評判を辱めない。特に完全に保存されている城壁は素晴らしい。観光客は非常に多いが、夏だから当たり前のことだ。それでも町を十分楽しめる。ドブロヴニクには旧市街ばかりじゃなくて、レストランなどもすごくいい。海岸の町だから、魚介の料理が多くて、レストランのテーブルの下で餌を待ってる猫たちもそうと思ってるらしい。
民宿の回廊には小さいギャラリーのように様々な写真がある。それは燃えているヨットや旧市街から上がる黒煙などの撮影だ。確かにこの素晴らしい町は数年前戦場になって数ヶ月間セルビア人によって砲撃された。
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第 4 日
Dubrovnik → Kotor (Montenegro) → Dubrovnik
前日にバス・ターミナルでコトルというモンテネグロの港湾町行きバスがあると気づいた。モンテネグロはセルビアと一緒に新ユーゴを作った国で、戦争のときにもセルビアと協力したということぐらいしか知らない。戦後にはセルビアのビザをもらうのはヨーロッパの人にとって中々難しいということも分かってたけど、モンテネグロもそうかなと思った。だから国境で断れちゃう可能性があってもコトル行きバスに乗ってみた。民宿の家族とモンテネグロへ行く計画について話したけど、それでかなりひんしゅくを買った。その家族はモンテネグロ人が嫌いだと言った。なぜかというのは、モンテネグロはセルビアと一緒にドブロヴニクを包囲して砲撃したという訳がある。家族の息子はそのことをよく分かっている。彼は戦争のときにクロアチアの軍人として戦線で戦った。
ダルマチアの海岸の日没 |
バスはずっと沿岸を航行していて、東南へ進む。この辺の海岸はスプリットとドブロヴニクと同じように素晴らしい。いつかバスは海岸から離れて、突然国境に着いた。全ての乗客は降りて国境の小屋へ歩いた。クロアチアの出国は当然ながら全く問題じゃない。「SR Jugoslavija」(ユーゴスラヴィア共和国)が書いてあるサインを通過して、モンテネグロ側でパスポートを見せた。『どうぞ』って。よかった!成功した。国境を越えた後にモンテネグロのおんぼろバスに入った。そのバスはクロアチアのバスより三倍ぐらい古いが、その代わりにスピードも三倍だ。市内にいるかいないかということを問わずすごくスピードを出した。景色は信じられないほど素晴らしかった。まことにフィヨルドだ。南欧にもフィヨルドがあるのは知らなかった。バスだけじゃなくて、皆が早いと気づいた。一時間の間に三つの酷い事故がみえた。あるところで完全に潰された車の周りに無数の血まみれのパンの塊が置いてあって、他のところで車はガードレールを突破しちゃって数メートル下で矢のように地面に突き刺さった。
よく分岐しているコトル湾沿いに走るのは楽だけど、終わりがないみたい。地図を見るとコトルは近いけど、それでも到着するまでに二時間以上かかる。旧市街に入るとすぐその町に惚れた。ドブロヴニクより小さいが、観光客が全くいなくて、横町や完全に保存されている城壁、イタリアの雰囲気をもつ様々な宮殿や教会などはすごい。この町は秘宝だ。中心広場で昼食をしようとして、ほとんど全ての料理は8ドイツ・マルクになる。ドイツ・マルクか!?外国の紙幣と硬貨を集める私はがっかりした。せっかくここまで行ったのにしわくちゃになった5マルクのお札しかないのかな。頑固だから、ユーゴスラヴィアの国立銀行へ行ってみた。『申し訳ないですが、ユーゴスラヴィアのディナールがない』って。自分のお金がない国立銀行か。
残念ながらドブロヴニクに帰るバスがもうなかった。しかし私たちの荷物はそこにおいてあって、ペンションで次の夜をもう払ったからコトルに泊まるわけがなかった。しょうがないから国境に一番近い町行きバスを捜して、イガロという観光地へのバスに乗った。バスの運転手は殺し屋?それとも自殺をしたいのか?運転のやりかたはその通りだった。カーブの前にも町の中でも遠慮せずトラックや他の普通の車などを追い越した。しかし交通が多くて、全てのセルビア人が同時にモンテネグロへ行ってきたらしい。イガロに着いたとき、クロアチア行きバスが全くないとわかった。だからヒッチハイクしかない。かなり時間かかったが、いつかクロアチアのカップルが泊まって、ドブロヴニクの付近まで連れて行ってくれた。
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第 5 日
Dubrovnik → Ploče → Metković → Mostar
ドブロヴニクからボスニア・ヘルツェゴヴィナの都市モスタルとサラエボ行き直行のバスがあるけど、切符は予約できない。早いもの勝ちということだけど、私たちは明らかに早くなかった。出発30分前ぐらい切符売り場に行ったとき、バスはもう満席だった。スプリットで買ったクロアチアとボスニアの地図によって、ある小町からモスタル、サラエボへの鉄道線がある。だからまずスプリット方面へバスで行って、プロチェというところで降りた。駅はすぐ見つけたけど、次のサラエボ行き列車は夕方に出発するのはありえない。しかし国境まで走る列車があった。それは40年代?50年代?の列車で、中は木造だけだった。しかも車両の間に空間があって、外で立ちながら運転することもできた。あんなに古い列車は懐かしい。しかしメトコヴィッチュという国境の町までの所要時間は短かった。
砲撃による大損害を受けたモスタルの旧市街 |
駅は国境からかなり離れて、徒歩でそこまで行くしかなかった。通過点の前に無数の車が並んでたから場所は分かりやすかった。ニコニコしながら歩いて全ての車を追い越した。ずるいと思ったかもしれないけど、同じ人たちは後でヒッチハイクをしてる私たちをニコニコしながら無視したから同点だろう。出国と入国の手続きはかなり簡単だった。バスも列車もなかったからまたヒッチハイクしようとした。しかし同じところで立ちながら車を待つのは厭だから、歩いた。十分歩いた。全部で10キロぐらい歩いた気がする。しかしボスニアだからちょっと不安だった。この辺には地雷原が本当にないのかな!?ここに運転する人はどういう人なのかな!?が、他の選択肢がないから仕方がなかった。いつかやっとサラエボの大学生が停まって、『あんたたちは勇気だな!』と言っちゃった。
北方へ進むと、最初の戦争によって焼き払われた弊村が見えた。それはモスタルの災禍の前触れだった。あの親切な大学生はモスタルまで行って、そこに着いたときには私たちはかなり疲れて、まだ何も食べなかったからまずレストランを捜した。新しいレストランはかなりよかったから『いいじゃん、モスタルは』と思った。それは最初の印象限りだった。宿泊所を探しながらムスリム地区を横断したとき驚愕した。何でも崩壊されてる。痕だらけの外壁があまりなかった。まず荷物を追っ払いたかったから、まずペンションに入った。中々みつけにくい場所にあったけど、やっと見つけたときに中に入って、そこには家族全員が居間の中に団欒して笑いながらテレビを見た。かなり面白い家族だった。この一日間は本当に喜→怒→哀→楽という起伏の感情を起こした。バスに乗れなくて、車が停まらない(恕)。モスタルの様子は「哀」。ペンションの家族は「楽」。荷物を置いといた後、また町を歩いて「哀れ」が続いた。ロンプリに戦線が書いてあって、せっかくモスタルまで行ったからそれも見ようと決めた。穴だらけの住宅。水道だけで壁とつながってるバス・チューブ。こういう状態なのにあちこちに人が住んでた。殺風景な眺めだったが、天気は非常によかった。それは妙な眺望だった。しかし次はまた「恕」のほうが強かった。モスタルにはモスクと教会の建築のコンテストがあるらしい。『俺の塔のほうが高いから俺の神のほうが立派だ!』というスローガンがありそう。
旧市街は絶対素晴らしい場所だった。次にモスタルの古い歴史を味わいたかった。そのため、『トルコ風の家』に入った。お年寄りの主人はとてもいい人で、博物館になった建物をうまく説明した。偶然にドイツに暮らしているトルコ人の若者も一緒にいた。主人はお連れにハレムの伝統的な衣服を装着た。おっと!きれいじゃん!ハレムって面白いかも。トルコの家のツアーはかなり長くてすごくよかった。最後に値段を聞いた。『払いたい分を払ったら十分』といわれた。戦線などを見た後にあんなに優しい人に会うのは値のつけられないことだ。これは本日の「喜」だった。
夜になったとき、狭い小町を歩いて屋台などが多い中心に行った。空想かもしれないけど、夜にも雰囲気がおかしい。バザーのようなところは賑やかだけど、笑ってる人があまり見えなくて悲しみにやつれた顔が多い。夕食を食べながら、『地球の歩き方』を調べた。モスタルが載ってるのかな。確かに載ってるけど、『モスタルは夜間の治安が非常に悪いので泊まらないほうがいい』と書いてあった。そうなんだ。
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第 6 日
Mostar → Sarajevo
ここはサラエボの修復はまだまだ |
モスタルという綺麗かつ鬱陶しい町に一日間滞在するのは十分だと思ったから、バスでモスタルより北にあるサラエボというボスニアの首都へ移動した。途中でまた多くの崩壊された村や小町、そして沢山のIFOR(平和実施部隊)の軍用車両などがみえた。サラエボが広がっている盆地までの景色はとても素晴らしかった。サラエボのバス・ターミナルに到着した後、まず安いペンションを探した。ガイドブックによって、駅に近いところで古い車両に入っているペンションがあるけど、それは閉鎖しちゃったと気づいた。だから市内まで歩いて旅行会社でプライベート・ルームを調べた。民宿なのに値段はかなり高くてびっくりした。それでもホテルより安いから、中心に住んでいる年をとった夫婦のアパートに行った。お爺さんのほうは喋りやで、何も訊かなかったのにサラエボの包囲時代について話した。何故全ての樹ははっきり見える境までなくなったかとか。この国、この町はバスでドイツから数時間だけ離れている。飛行機なら2時間以下かかるんだろう。それでもこの場所は距離的ばかりじゃなくて、時間的にもかなり離れてると思った。
サラエボ自体は素晴らしくて、多様性の大都市だ。殆ど全ての砲撃による損害が復旧されたから普通のヨーロッパの首都になったと言ってもいい。例外は川の南岸の戦線だ。住宅地の建物には弾丸の痕が多くて蜂の巣の様子になった。それでも一階にはモダンなエスプレッソ・バーなどが入っている。それ以外はサラエボにはポジティヴな印象のほうが残っている。無数の諸国は協力して町の復活を援助。工事中の建物が多くて、そこにもトラムやバスなどにも日の丸やドイツの国旗などが見える。戦争に飽きた人がいたら、それはサラエボの市民だ。
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第 7 日
Sarajevo → Tuzla → Osijek
オシエクの赤い教会 |
お連れはまだハンガリーに行ったことがなかったから、益々ハンガリー方面へ行くことにした。ハンガリーとボスニアの間にはクロアチアがある。サラエボからブダペストまで急行があったが、戦争のせいでその列車はまだ運休してた。だからバスしかなかった。そのボスニアとハンガリーの間の狭いクロアチアの東端は東スラヴォニアと呼ばれてる。探してもスラヴォニア行きバスもなかった。地図によって、まずトゥズラという北ボスニアに行って、そこからスラヴォニアへ行く方法しかない。トゥズラは戦争のときに六つの保護地域の一つだったから名前だけはわかった。サラエボから北方へ行くと、景色は変わる。丘や森林、畑などがある綺麗な風景で、ドイツと同じだった。私たちは唯一の外国人の乗客としてバスの一番後ろに座ってた。途中で天窓からスズメバチが入ってきたと気づいた。あのスズメバチは直接後ろに飛んできて、見えなくなった。数秒後、突然『あいたっ!』と思った。刺されちゃった!しかしスズメバチは素早くまた天窓へ飛んでバスから出た。出たときにあいつは絶対キャッキャッと笑った、こりゃ一体なんだったんだろう!?外人狩猟用に仕込まれた雀蜂じゃなかっただろうか。
トゥズラにはあまり長くいなかった。少しだけ殺風景な産業地帯の郊外を歩いたが、中心までいけなかった。すぐ次のバスは北方にあるオシエクという都市まで出発した。国境に着いた前、巨大な塵だらけの市場が広がっていた。クロアチアとの国境の通過点は大きくて、税関の検閲はいら立つほど長かった。例外なし全ての乗客の荷物が調査された。いつかやっと続いて、夕方にオシエクに到着した。オシエクには安宿が全くないとすぐ気づいた。全部で三つのホテルしかなくて、ペンションなどがない。全てのホテルは同じように高かったからしょうがなくて一番中心的な場所にした。そのホテルはやや古くてかなりいいところだった。オシエクはザグレブやスプリット、ドブロヴニクなどと全く違う。これもクロアチアだ。観光客が全然来ないクロアチアだ。他のクロアチアも体験できるようになったからオシエクに行くことをあまり後悔しなかった。
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第 8 日
Osijek → Vukovar → Pécs (Hungary)
起きた後、ハンガリーへの最短のルートにしようと決めた。オシエクに一番近いハンガリーの都市はペーチと呼ばれて、地図によってあまり離れなくて列車もある。だから直接オシエクの駅に歩いて時刻表を調べたけど、次のペーチ行き列車は数時間後出発するとわかった。数時間って、暇つぶしとして何をすればいいだろう。だから駅前のバス・ターミナルへ歩いて、バスに書いてある目的地を調べた。一つのバスはそのときにエンジンを掛けて、上に『ヴコヴァル』が書いてあった。ヴコヴァルって聞いたことがある地名だ。数年前に戦争に関するニュースでよく出た地名だと思い出した。オシエクにすごく近いから、私たちはそのバスに駆け込んで東へ走った。街に入る前に大きい産業地帯が見えた。しかしほとんど全ての工場は完全に崩壊された。ヴコヴァルまでは結局一時間もしなかった。バスを降りた後まず幅が広いドナウ川へ歩いた。そしてびっくりした。町の様子はモスタルの戦線沿いの様子と同じだったけど、ヴコヴァルの場合には町全体は戦線だったらしい。全ての建物は痕だらけで、煙突が倒壊しちゃった。元々素晴らしいエルツ宮殿は崩壊され、屋根や中の壁がなくなったから植物に占領された。ただドナウ川は昔と同じく怠惰に流れてる。対岸はセルビアだ。旧ユーゴをわかるため、セルビアにも行かなければならないだろう。だから近い将来にセルビアに行こうと決めた。
ヴコヴァルでよく見える眺望 |
ヴコヴァルは長く滞在するはず場所じゃないから、私たちは次のバスでヴコヴァルから逃げる。簡単に逃げるのは贅沢だな。数年前の人は勝手に逃げれなかった。数年後またヴコヴァルに行くのはいいことかもしれない。バスでオシエクに帰って、また時間が残った。だから次の列車でベリー・マナスティルというハンガリーへの鉄道線沿いの小町に行った。ベリー・マナスティリは『白い修道院』というだ。この田舎の町で列車を降りたとき、お巡りが近づいてきて『何の用件でここに来たか』と聞いた。次の列車でハンガリーへ行くと言った後に彼は前より親切になった。
列車には私たち以外にほとんど誰もいない。しかも各駅停車だと気づいた。ハンガリーの国境警備員は暇人らしくていろんな冗談をいう。『パスポートにスタンプを入れてほしいか』などを聞いた。地図によってペーチは確かに近いけど、ノソノソの列車だから二時間以上かかった。やっとペーチに着いた。平原はもういいから、ペーチの周辺の山を覗いたときちょっと嬉しかった。もう遅いから、直接中心にあるツーリスト・インフォメーションまで歩いた。そこに民宿を仲介してくれるのかな。町の最初の印象はすごかった。あまりハンガリーっぽくないペーチは綺麗な町だ。インフォメーションのスタッフはやっぱり民宿を仲介して、私たちに物足りない地図を渡した。しかし通りの名前があまり載ってないし、スタッフが見せた民宿の場所もあってなかった。私はあまり迷わないけど、迷ったらちゃんと迷う。一時間以上ぐるぐる回った後にやっと教えてくれた場所をみつけた。しかし主人は『遅すぎるよ!もう他の人を入れてしまった!』と言っちゃった。えっ!?その代わりに彼女の郊外に住んでるお年寄りの知り合いの住所を教えてくれた。
中心からすごく遠い郊外にあまり泊まりたくなかったけど、もう遅かったからそれにした。郊外なのに、すぐそのアパートをみつけた。4建ての建物が並んでいる住宅地で、探したアパートの人は約80歳のおばあさんだった。住宅の家具なども同じように古かったと思った。彼女は一言も外国語できず、私たちのハンガリー語能力は四つ、五つの言葉に限られている。それでも彼女はよく喋っていた。が、「5th Element」という映画の主役と同じ話し方だったから中々面白かった。すごくお腹すいてたから、ガイドブックを調べて彼女に『Vendéglõ!?』(レストラン)という言葉を投げ渡した。それは新しい滔々たる弁舌を起こした。それでもおかげさまでハンガリー風のレストランをみつけた。ハンガリーの料理はいつも量が多いのは本当にありがたいと確認した。残念ながら中心は遠すぎて、そこまで行けなかった。それでも十分回った一日だった。
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第 9 日
Pécs → Szeged
フェニックスのように甦ったセゲド |
朝早く起きた後、おばあさんにさようならを言って、一緒に写真を撮った。言葉は全く通じなくても身振り手振りで色々を説明して、優しい人だから仲良くなった。続いてバスで市内に行った。ペーチについては行った前に何も知らなかったけど、この素晴らしいところはコトルと同じようにナイス・サプライズだった。古い建物がすごく多くて、町並みはとてもよい。様々なオスマン時代の建物も残っているのはハンガリーで中々珍しいことだ。その上、大学生も多いからすごく明るい雰囲気だ。数時間市内を散歩した後、ゆっくり駅に戻った。ペーチはクロアチアばかりじゃなくて、セルビアにも近い。しかしビザをもらうのはすごく複雑だと聞いたから行けなかった。ルーマニアもあまり遠くないからそこへ行こうかなと思ってたけど、二日間だけルーマニアに行くのはもったいないだろう。だからもう少しハンガリーを旅しようと決めた。南ハンガリーのセゲドは面白そうからそれを次の目的地にした。列車があまりないからバスで行った。
セゲドへ行くことも後悔しなかった。この町は19世紀末に大洪水によって完全に洗い流されてしまった。現在にはこういう災禍があったら国際的援助は当たり前のことである(はず)。百年前、こういう協力は当たり前のことじゃなかったけど、セゲドの場合にはヨーロッパの各国は協力して町を再建した。その結果はかなり面白い町づくりだ。ただ中心に立っている奉納教会堂はかなり醜くて、それをすぐ「レープクーヘン教会」(※レープクーヘンはドイツ風の茶色いジンジャー・ブレッドで、グリム童話でそれで作られた小屋が出る)に改称した。残念ながら、セゲドにも安宿を見つけるのはやや難しかった。行きたかった場所は閉鎖して、管理人は私たちをすげなく拒絶した。結局大学生の寮に泊まることになった。素朴な部屋だったけど、中心に近かった。残念ながら、学生たちがあまりいなかった。夜に町を歩いてみていろんなレストランでメニューを読んだけど、ドイツですごく有名な「セゲド風のグヤーシュ」を見つけれなかった。セゲド以外にどこにもあるらしい。セゲド風じゃないじゃん!
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第 10 日
Szeged → Budapest
実は私はブダペストへあまり行きたくない。なぜかというのは、大都市だから。しかも行ったことがある。それは12年前だったので、ブダペストについてはぼんやり思い出した。それは1989年で、ハンガリーで史上に名をとどめたできごとがあった。そのとき、東ドイツは益々コーヒーに入れた砂糖のように解けて、結局あっという間に内破した。その前震はハンガリーでよく感じられた。そのとき、色んな人たちはビラを配って、そのビラには「○○市で祭が開催され、オーストリアの国境が一時的に開かれるべし」と書いてあった。沢山の東ドイツ人はそれをすかさず機会をとらえ、オーストリア経由西ドイツへ逃げた。お連れはブダペストに行ったことがないから、そしてこのドナウ川沿いの都市は必見の場所なので、ブダペストへ出発した。
王宮の丘で演奏したルーマニアのバンド |
急行で直接セゲドからブダペストへ行った。宿泊所はまだ決まってなかったから、ガイドブックを調べてみたけど、選択肢は迷うほど多い。結局安いホステルを選んだ。首都の駅に到着した後、すぐ宿泊所の客引きがどやどや走ってきて色んな場所を提供した。駅前にもそういう人が多くて、ある人は私たちが選んだホステルの割引券を配ったから丁度よかった。
あのホステルを選んだ理由が二つあった。一つは安い値段で、二番目は24時間営業しているホステルのバーだった。ドブロヴニクの後は他のバックパッカーが全く会えなかった。遠くから偶にお年寄りのツアー・グループなどが見えたけど、やっぱりモスタルやオシエク、ヴコヴァルなどへ行く人はほとんどいない。各地のバックパッカーと話すのは時々楽しいから、ホステルにチェックインした。しかし部屋はすごく狭くて、ベッドは子供専用の板張りの寝台のようだった。しかも朝から夜までうるさかった。もうチェックインしたからしょうがないだろう。続いて、数時間ブダペストの中心を歩いた。天気がよかったからいい体験だった。しかしブダペストは本当に大きくて、普通の観光客としては小さい部分しか見えないだろう。
内容豊富な夕食の後、ホステルの地下にあるバーに入ってみた。確かに他のバックパッカーが多くて、中々国際的だった。前に泊まった場所は全てかなり静かだったから、あんなにうるさい場所は久しぶりだった。他の人と話すと、ほとんど皆は同じルートを旅することを気づいた。ガイドブックに載ってない町にも行って、そして気軽に国中をあちこち旅行して回る人があまりいない。それは残念だな。しかし自分も最初の旅行でこういうふうに行ったから気持ちがわかる。あるドイツ人と話したとき、セルビアは夏に三ヶ月ぐらいビザ不要になったことがわかった。勝手に行けたか。しかもそのおかげでモンテネグロに入国できたか。
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第 11 & 12 日
Budapest → Esztergom → Szentendre → Budapest
エステルゴムの巨大な大聖堂 |
この旅行の第11日を本当のツーリストのように過ごした。カメラを持ちながらブダペストの地区ブダ、ペストとオーブダをぶらぶらしてた。一日間半ぐらい町を歩いたが、それでも表面しか見えなかった気がする。市内には様々な大きい公園などがあり、それをゆっくり見るとかなりリラックスできる。王宮の丘の上にはチョード私たちが行ったときに中世期の祭があった。伝統的な市場や民族音楽を演奏するルーマニアのバンドなどがあったから面白かった。膨大な国会議事堂の南方にあるサバドシャーグ広場は一番印象的な場所だったかもしれない。そこには色々な面白いアール・ヌーヴォー様式の建物がある。
翌日に日帰り旅行をしようとした。だから各駅停車に乗って北へ数十キロ離れているエステルゴムという小町へ行った。エステルゴムは田舎の町みたいだけど、真中には巨大な大聖堂が立っている。丸屋根の高さばかりじゃなくて、地下聖堂にある彫像などもすごかった。ドナウ川の対岸はスロヴァキアだが、日本人はそのときにビザが必要だったから行けなかった。数時間エステルゴムを歩いた後、バスで「ドナウ川の膝」という地方を川沿いに南へ走ってた。目的地はブダペストに近い小町センテンドレだった。その町の旧市街は確かに綺麗だけど、すごく観光客が集まってる場所だから見学はあまり楽じゃない。だから少し歩いた後にブダペストに戻った。次の夜は第三の狭くてうるさいホステルの夜だったから、それで十分だと思った。ブダペストはやっぱりきれいな町だけど、近い将来に戻りたくないと志した。それはプラハに対する気持ちと同じ。
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第 13 日
Budapest → Ljubljana
この旅の最後の旅行先はスロヴェニアだ。要するにスロヴェニアは2週間以下の第五の国だ。それはやばい。旅行じゃなくて、脱走のような動き方じゃないだろうか。しかしその二週間をちゃんと利用して本当に勉強になった気がする。一人、二人で旅行する場合には二つの種類がある。一つはゆっくり小さい範囲を旅することだ。例えば徒歩でまたは自転車で行くときにそうになる。
リュブリャナ城の塔内の二重螺旋階段 |
こういうふうに行くと、その地方の特徴と人たちがちゃんとわかるようになる可能性がある。しかしそれでかなり余裕が必要だ。二番目の方法は計画を立てずジグザグであちこちへ行って、時々長いステップをすることだ。その場合には、よく表面しか見えないが、他の場所と簡単に比較することができる。こういうふうに集めたスナップショットは後でパズルのように作り上げることもできる。
本日は長いステップだった。それはブダペストから急行でリュブリャナへ行くことだった。切符売り場でまずショックを受けた。リュブリャナまでの運賃は45ユーロぐらいで、高いなと思った。ブダペストに戻るはずじゃなかったのに往復の切符を買った。なぜかというのは、ハンガリーの鉄道会社の割引制度はおかしい。外国へ行く場合には、片道の切符は往復の切符より安いところがある。リュブリャナに着いた後に残った切符を売れるかなと思った。急行はモダンな車輛で、快適だ。しかし旅行者が多くて車室は満席だった。こういうふうにエアコンの列車でまず西ハンガリー、そして山が多い東スロヴェニアを横断した。数時間後、マリボールというスロヴェニアの第二の都市を通過した。不思議なことに、この町については何も聞こえない。そんなに面白くない場所なのかな。マリボールに降りて見ごたえのある場所が見えるのかな。しかしリュブリャナまでの切符を買ったから列車に残った。9時間後、やっと首都に着いた。すぐ安いホテルをみつけたのはありがたかった。短い散歩をしたけど、すぐ夕暮れになった・・・
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第 14 日
Ljubljana → Bled → Ljubljana
スロヴェニアを訪問する理由は何だろう。一つはブレッドとその湖だといわれてる。そのブレッド湖はスロヴェニアの北西にあって、オーストリアに近い。私たちだけじゃなくて、他の旅行者もブレッド湖に行くからバスにはスロヴェニア人があまりいない。スロヴェニアは小さい国だから、所要時間はかなり短くて、すぐ地平線でユリアン・アルプスと三角形のトリグラフ山というこの国の最高峰が見えた。
ブレッド湖の上の素晴らしい雲海 |
到着した後、まずバス・ターミナルから小町を横断した。無数の高級のホテルやレストランが並んでいる観光地だ。そして湖岸に着いた。確かにすごい!だからそんなに観光客が多い。湖水はすごく透明で、時々青、時々緑に輝いた。湖の真中には小島が浮かんで、その上に尖っている教会が立っている。周辺は山ばかりだから景色はすごい。もう昼だったから、湖岸に面している安そうレストランに入ってみた。料理の質はまあまあだったけど、値段は普通より高かった。観光地だからそういうもんだ。ブレッド市を出た後にまずお城を見学して、その後ブレッド湖を一周してみた。それはあまり遠くなくて、他の人が全くいない場所もみつけた。地図によって、町の対岸の周辺には駅がある。その駅をすぐ見つけたけど、列車があまりないとわかった。だから畑や森林などを通過して町に戻った。
バスでリュブリャナへ戻って夕食を食べた。その後、バーのようなところに入ろうと思った。ある歩行者専用通りを歩いたとき、建物の中から音楽が流れていた。それはもしかしてパンクという音楽か。雰囲気がよくて面白いクラブを見つけたのかなと思って中に入ってみた。スタッフの若者は親切だったが、何か変な顔をした。ビールを頼んだ後に奥のテーブルのほうに座った。そして音楽を聞いて、突然歌詞の内容をわかってびっくりした。これは左翼のパンクじゃなくて、ドイツのネオ・ナチスの音楽だ。しかもドイツ語で歌ってた。綺麗なリュブリャナの中心で激右翼の巣に入っちゃった。スロヴェニアのナチスって本当に滑稽なことだ。どうしようと考えて、まず普通より早くビールを飲み終わった。そして払って、ゆっくり外に出てみようとした。お連れは日本人だから、ご無事に出れると望んだ。玄関のほうに変な人たちが座って、何かをスロヴェニア語で叫んだ。そしてお連れのほうに空の缶を投げた。私は躊躇して、あいつらにヒトラーは一体どういうふうにスラヴ人について考えたかとドイツ語で教えようかと考えたけど、人数が多くて危ない、そして豚に真珠だと思って止めといた。この世の中には愚か者がどこにもいるという洞察、そしてお連れに対して心に疚しいところが残った。
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第 15 日
Ljubljana → Koper → Trieste → Ljubljana
リュブリャナはスロヴェニアの中心にあって、スロヴェニア自体は中々小さいから首都から簡単にあちこちへ行けるのは利点だ。私は何となくトリエステというイタリアの海港町に興味がある。それはスロヴェニアじゃないけど、イタリアへ行く可能性があると絶対行く。そう考えるとこれは5回目のイタリアの訪問になるけど、5回と言ってもローマ、ミラノ、ベネチアやナポリなどはまだ行ったことがない。その代わりにメラツォ、バーリ、パドヴァなどの誰も行かない場所へ行った。トリエステこそ観光地だとあまりいえない。そこへ行くため、まず海岸の町コーペル、そしてそこからトリエステの中心に行った。今本当にバルカンを離れたと感じた。トリエステにはイタリアの特徴の交通の大混乱が体験できる。町の郊外はびっくりするほど発達して、ブーム中だ。
この辺はベネチアっぽいだろう |
トリエステはイタリアの町だけど、中心には華々しいロシア正教会の建物が立っている。それ以外もこの町で建築様式の妙な組み合わせが見える。ある辺は中々ベネチアっぽい(行ったことないくせに)、他の地区はハプスブルク家の王立都市っぽい。中世期のままの砦もある。昼食として、人気のあるらしいところでメロンとパルマ製の生ハムを頼んだ。イエス!それだけはこの日帰り旅行を十分正当化した。普通の観光客もあまり来ない場所だったから、コペルトというサービス料金もかからなかったトリエステはかなり大きくて、あまり計画されなかった町らしい。要塞からの眺望はそれを確認した。数時間町を歩いた後、かなり疲れてバス・ターミナルへ戻って、コーペル経由リュブリャナに帰った。
夜にまたリュブリャニツァ小川沿いにぶらぶらと歩いて、レストランが並んでいるところで面白そうピザ屋さんをみつけた。イタリアに行ったから、この日を「イタリアの日」にしようとして入ってみた。素朴な店で、メニューを見ると二つのサイズがある。それは「中」と「大」。豊富な昼食だったから、「中」にしたけど、注文したピザが届いたときにびっくりした。えっ、あれは・・・いたずら!?どこかテレビのカメラがあるのかな?私たちの前に置かれたのは車のタイヤのように大きくて、約50センチの直径のピザだ。(挑戦が大好きの方:その店の名前は「Ljubljanski Dvor」)。それでも質はすごくよくて、おいしかった。私はそのピザを食べ尽くしたけど、今でもそれをどういうふうにできたのかと驚いてる。食べ物が大好きのお連れは半分しか食べれなかった。スタッフはそれを見て、「でかすぎるでしょ」といった。何でそれがわかるのにもっと小さい版がないのかな。それは「中」だったけど、「大」って一体どれぐらい大きいのか。
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第 16 日
Ljubljana → Postojna → Ljubljana → München
もう最後の日だ。この旅は短すぎた。ミュンヘン行き列車は真夜中の前に出発するから、かなり時間があった。スロヴェニアにはカルスト地形という特色の景色が有名だ。カルストといえば、鍾乳洞。スロヴェニアには無数の洞窟があるけど、その内二つはかなり有名だから、そこへ行ってみようとした。自分の車がないから、その二つの洞窟の一番いいところへ行けない。しょうがないからポストイナという場所へ行った。そこには無数の観光客が集まってきた。だから入り口はすごい分かりやすい。ディズニーランドのようなトロッコで闇に入った。しかしポストイナ鍾乳洞は観光客によって大損害を受けて、大きいグループでその洞窟を見るのは全く面白くない。1時間半後、その変なツアーがやっと終わって、ここに来ることをちょっと後悔した。
リュブリャナに戻った後、また町を散歩した。最後の三日間本当にリラックスして、ホリデーって感じだった。しかしそれはバルカンの”試食品”だけだった。面白かったから、絶対またバルカンへ行こうと決めた。かなり混んでる夜行で結局ミュンヘンへ行った。ミュンヘンは何回も通過したところだったけど、町を観光するのは初めてだった。ドイツ人なのに。確かに外国ばかりじゃなくて、自分の国もちゃんと観光してほしい。
スロヴェニア | リュブリャナ | ポストイナ
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