キエフから南東へドニエプロ川を500キロ位くだると、大都市が密集している地域に入る。その大都市はドニエプロジェルジンスク、サポロシエやドニエプロペトロフスクというと呼ばれて、ドニエプロペトロフスクはその内に一番大きな都市だ。人口は100万人を超えるので、ウクライナの一番大きな大都市の一つである。町には短い地下鉄さえもある。それ以外は、マルシュルトカ(乗合タクシー)、トラムとバスは市内の一番大切な交通機関だ。
町自体はかなり若い:ドニエプロペトロフスクは1776年に女帝エカテリーナ二世(また!)の指示に従って創設された。この町は元々エカテリーナに敬意を表してイエカテリーノスラフ(エカテリーナの栄誉)と呼ばれた。
この地方は東ウクライナの一部で、西ウクライナの地方と全く違う。この辺はロシアに近いということはすごく分かりやすい。言語だけを聞くとわかる:ドニエプロペトロフスクではウクライナ語はあまり使われていない。
この町は工業(特に金属工業)の中心だ。ドニエプロ川はドニエプロペトロフスクを南部と北部に分ける。ドニエプロ川はチェルノブイリというベラルーシ(ベロルシア)との国境にある場所から黒海の入り江までほとんどずっと堰きとめられている。ドニエプロペトロフスクではドニエプロ川はキエフでと同じくかなり狭いが、それでも中心での幅は1キロを超える。町の本来の中心は南部にある。西と北はだいたい工業地帯で、東にはサマラ川はドニエプロ川に流れ込んでいる。
都市の名前は変更されたが、メイン・ストリートの名前はソ連時代のままだ:
просп. Карла Маркса プロスペクト・カールラ・マールクサ
あまりにも大きすぎる中央駅の前ではカール・マルクス大通りが始まり、ドニエプロ川の南岸と平行に真直ぐ中心全体を走っている。マルクス大通り沿いは行政官庁の建物やデパート、高級品の店などが並んでいる。
中部の長さはほとんど2キロで、その部分には大通りの真中は小さい公園になり、ベンチが多い。かくして町を歩くときに疲れたら、どこでも座って休める。しかし、皆は背もたれの上に座るので、ベンチはたいてい汚い。背もたれに座る理由?「皆は背もたれの上に座って汚くなるから私も背もたれの上に座る」という癖兼悪循環だ。そういうのは聞いたことがある?その通り、ウクライナの列車内のトイレは同じ。中心の一番真中で、大聖堂の向かい側にはЦУМという「中央百貨店」がある。同名のデパートはロシアなどでどんな町にもある。デパートの裏側は市場になっている。この華麗なマルクス大通りを歩くと、貧乏な人がそんなにいるのは信じられない(しかし、横町と郊外を見ると、すごくたくさんいるとわかる)。大通りで並んでいる店はお金のにおいがする(そして公園のベンチはビールのにおいがする)。
Диарама Освобождение Днепропетровска ディアラーマ・オスヴォバシュデーニエ・ドニエプロペトロフスカ
マルクス大通りの東のほうには、綺麗なキャンパスのある鉱業大学がある。その近くには、小さい公園の中に醜いコンクリートの建物が建ってある。中には、ドニエプロペトロフスクの開放のパノラマというソ連時代の文化的な残渣の一つがある。一つかみのコピノク(ウクライナの補助通貨)を払うとエアコンが付いているホールに入る。そこには、莫大な半円の戦争画がある。それを見ながら、鬨の声がスピーカーから鳴り響く。一人で回ることは許されていない。その代わりに、ある女の人は熱心で色々を説明する。その話は第二次世界大戦のドネプロペトロフスクの戦いについて。この「英雄的な戦い」(ガイド曰く)では、ソ連の赤軍の260万人はナチ・ドイツの120万人の軍人を包囲攻撃した。結果としてはガイドによって赤軍の60万人が戦死をとげた。どれぐらいのドイツ人が死んだのはガイドが全く述べなかった。この戦いはスターリン特有のものだった:「すごく沢山の軍人を”使う”といつか勝つ」。彼は人間を「材料」として思って、数万人を無駄に戦死させた。ナチ・ドイツは結局負けたことは歴史的に考えるとよかったが、スターリンの人間軽蔑的な政策は相変わらず賞賛されているのは悲しいこと。ちなみにこのパノラマは芸術的に最低・・・この悪趣味の戦争記念碑はいつまで残っているだろうか。パノラマの周りには様々な第二次世界大戦で使われた戦争物資が置いてある。数百メートルぐらい川の方面へ続くと、
Свято Преображенский кафедральний собор – スヴャト・プレーオブラシェンスキー・カフェドラルニー・ソボール
聖キリストの変容という教会がある。この教会は元の計画によってもっと大きくなるはずであったが、結局お金が足りなかったと言われている。そのため、元々の基礎壁は現在の教会を囲む庭の外壁になって、教会は計画されたよりかなり小さい。この建物は女帝エカテリーナに捧げられた。教会の中は修復されたばかりで、修復するためには沢山の金箔が浪費された使われた。この金箔などを買うためのお金はいったいどこからのお金だろうと聞いてみたい。ウクライナの教会前にはいつも物乞いする老人が布施を期待している。このドニエプロペトロフスクの大聖堂の前でも、物乞いする老人がいるが、明らかに金箔は食べられない。全ての教会に金を着せるより福祉と介護などの課題を推進したほうがいいだろう。金色の十字架と食べ物がない年寄り ― それはウクライナでかなり気になった対照だ。一番田舎のある村のプチ教会に金を着せた後、こういう状況が改善されるだろう。
上記の教会の近くには怪しいことがある:それは警察の記念碑だ。傍には、正面がガラスの小屋がある。警察員は”自分”の記念碑を守らないと、この記念碑は絶え間なく損害を招く(”招く”はこの場合に一番適当な言葉だろう)。しかし、ヨーロッパでは、警察の記念碑を作るアイディアは怪しいということは誰でもわかる。ドニエプロペトロフスクは金持ちの町らしい。この記念碑を見たとき、私の中には二つの質問が浮かんできた。?ドイツの都心でこういう記念碑があったら、それはどれぐらい残るだろう。?ドニエプロペトロフスク市はこの記念碑を監視かつ整備をするために一年間にどれぐらいお金を使うかな。
остров Монастырский オストロフ・モナスティールスキー (修道院の島)
大聖堂からまた北の方へ歩くと、すぐ大きくてやや汚いシェフチェンコ公園に入る。中には、かなり大きな「青年の建物」や色々なテーブルのようなチェス盤、そして大きくて醜いクラブがある。その後ろ、ドニエプロ川が流れている。ドニエプロ川には、沢山の小島がある。その内、「コムソモーリェツ島」という場所がある。「コムソモーリェツ」はソ連時代の青年団であった。しかし、そういう青年団がもうないから、古い名前を使うようになった:修道院の島(都市の地図では二つの名前が書いてある)。狭い橋を超えると島へ行ける。左には、中々小さい修道院があり。市民達にとって、右側のほうが面白いだろう:あそこは長いビーチがある。それに加えて、シャシュリックを売る屋台がある。シャシュリックはロシアと旧ソ連の諸国の伝統的な焼肉だ。それはかなり量が多くて本格的な味がする。ロシアの(豚肉)の焼肉の素朴さはかなり魅力的。当然ながら、ウオッカやビールなどもある。ドニエプロペトロフスクで大都市を逃げることは簡単。島からマルクス大通り行きロープウエイさえもあるが、それは夏だけに運転してぼろぼろしているのでちょっと不安らしい。
結論としては、この町は見応えのあるところだ。「ここが有名」という場所があまりないが、東ウクライナというのはウクライナの全然違う一部だ。この辺はキエフやリヴィウなどと全く違うので、違う国(ロシア!?)にいる気がする。
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