旅行記:ルーマニア・ブルガリア・マケドニア・セルビア

第一日

ハレ → ドレスデン → プラハ

やっと旅行できる期間が来た。しかし、今回の旅行はお仕事などのせいでやや短くなった。全部で二週間しかない。旅行先はルーマニアだ ― やっとと言える。ルーマニアの隣国はほとんど全部旅したことがあるのに、この妙なルーマニアという噂が多い国は私にとって未踏査地域であった。それに加えて、モルドバという「ルーマニアの弟」も旅する予定だった。あるモルドバのプチ村には、知らない家族は私たちを待ってるということをわかったから、絶対楽しい旅になると思った。詳しく言うと、その知らないモルドバ家族は父親の会社の同僚の妹の家族だという難しい絆。もちろん、今回の旅行もだいたい列車でするはずだった。ただドイツからルーマニアまでの切符は高くて割引が全くない ― ハレからルーマニアのブラショフまで寝台で行くのは一人で145ユーロ(約1万7千円)かかる。片道。
ドイツからルーマニアまでは直行の列車があったが、もうないらしい。だからまずドレスデンへ行って、そこからプラハまで行った。ドイツの鉄道会社は相変わらず調子が悪くて列車が遅刻したけど、それはもうびっくりするほどことじゃない。プラハに到着したのは夜11時で、乗り換えするために丁度よかった。

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 ハレ | ドレスデン | プラハ

第二日

プラハ → ブラショフ

急いで駅の構内で食べ物を買った後、真夜中ごろ出発する列車を探した。「ブダペスト行き」だけが書いてあって、車両の番号は混乱してるから予約した車両を探すのは時間かかった。もちろん、私たちの車両は一番最後のだった。その車両だけはブルガリアのヴァルナという黒海の汀にある都市だ。その車両はかなり古い寝台だけど、清潔だ。同じ車室には、二人の背が高いチェコのハイキングが好きらしい人がいた。それ以外は、車両は満席じゃなくて人が少なかった。
8時ごろブダペストに起きた。夜中には色んな国境検査があったが、それは夢みたいだった。プラハから出発した列車の大部分はブダペストを終点にするから、沢山の新しい車両が付けられる。今回はちゃんと「至ブカレスト」が書いてあった。私はまずコーヒーを探しに行った。うちの車掌はまだ寝てた。次の車両はスロヴァキアの車両で、コーヒーの値段は0.4ユーロ。しかし、車掌は行方不明。次の車両はハンガリーの。コーヒーの値段は1ユーロ。うちの車両はチェコから、コーヒーは0.8ユーロかかる。お好きな値段どうぞ!しかし、ハンガリーの車掌だけが起きてた。

ルーマニアの最初の印象

ルーマニアの最初の印象

ルーマニアの国境に近づくあいだに、天気が段々悪くなった。というのは、真昼に国境に着いたとき、雨が降り始めた。ルーマニアの国境の警備員はすごく優しくて、ドイツ語で挨拶した。そしてパスポートにスタンプを押して、「ルーマニアの滞在を楽しんでね」といってくれた。車窓から景色を望むと、山が段々高くなる。そして雨が段々強くなる。町などはハンガリーよりぼろぼろして汚い。いつか、一緒に車室にいたチェコ人は降りた。この天気でハイキングするのは楽なのかなと疑ってもいいだろう。私たちの食べ物の蓄えは尽きかけてきたから、列車のレストランに入ることにした。車内レストランのコックはすごく太って、油っぽいエプロンを付けて畜殺屋のようなニヤニヤした笑顔で挨拶した。今日のお勧めはソリャンカというハンガリー風のスープだった。それを頼んで、すぐできあがった。スープ鉢を開けた後の最初の考えは「犬の餌だじゃないか」ということ。黄色い。汁気がたっぷりある肉の塊つき。温い。スパイスとして辛いチリのソースがあるのはありがたいだった。チリは缶詰のスープの味を隠した。豆と肉のスープをやっと苦笑しながら食べ尽くした後、コックがまた同じものを持ってきた。どうしたの?と聞くと、「缶はスープ鉢より大きいから、二つのスープ鉢に入れなきゃ」と言っちゃった。
途中でよく長く止まった列車は遅刻して21時ぐらいブラショフに着いた。ブラショフ駅の構内のツーリスト・インフォメーションはもう閉鎖しちゃったが、その代わりにちょっと年配のカップルが近づいてきた。それはマリアとグレッグという人たちで、色んなガイドブックに載ってるぐらい有名だ。二人ともはそれをもちろんわかって、私たちにいろんなガイドブックを見せた。「私たちだよ!ほら!」って。マリアとグレッグは個人旅行者にアパートを提供するというフールタイム・ジョブ。グレッグはいい人らしい。彼はすごく落ち着いてあまり話さなくて我慢できるタイプだ。マリアと結婚してるからそういうはずだとすぐわかった。彼女は張り切って英語とドイツ語と日本語を混ぜて無休に喋ってる。いつ息を吸うの?と聞いてみたかった。二人が提供するアパートは一人一泊で10ユーロかかるから許せる値段だ。「ブラショフの後どこへ行くつもりなの?」と聞かれて、「モルドバへ」と答えた。するとマリアがびっくりして、「遠いじゃん!」と驚いた。いや、あまり遠くないだろう。今直接ドイツから来た。それは遠かった。どれぐらいお金をおろせばいいほど色々なものを教えてくれた。はい、お母さん!わかった、気をつけま〜す、お母さん!マリアは優しい人だけど、一時間以上は耐えられない。絶対無理。40万レイ(やっとお金持ちになった!)をおろした後、車でマリアと一緒にアパートへ行った。
そのアパートは駅に近くてびっくりするほど綺麗。清潔なお風呂、でかいキッチン。何でもある。しかも自分の鍵をもらうから、本当に自分のアパートに住んでる気がする。払った後、アパートは突然すごく静かになった。えっ?と思ったけど、ただマリアがいなくなったという理由だった。列車で食べた犬の餌みたいなスープはやっぱり足りなかったから、すぐ外に出て、雨が降りながらレストランを探した。しかし、トルク料理のレストランしかみつけれなかった。「ラーマチュン」というトルコ風のピザを食べながらルーマニア製のビールを挑戦した。全部で二人で350円!しかも、そんなにうまい伝統的なラーマチュンはトルコで食べたことがない。アパートに帰った後、やっとシャワーを浴びれた。私たち以外、同じアパートにはオランダのカップルとスコットランドのカップルが泊まった。

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 ルーマニア | ブラショフ

第三日

ブラショフ → ブラン城 → ラシュノフ城 → ブラショフ

コーヒーを啜った後、ブラン城とラシュノフ城の見学へGo!とした。マリアは前の日に両所へのツアーを売ってみた。それは700円ぐらいかかる。スコットランドのカップルはツアーに参加することにしたが、あまり高くないけど、ツアーは面白くないから私たちは自分で行ってみた。もちろん雨が降ってた。雨が降りながらバス・ターミナルへ歩いてすぐブラン行きバスを見つけた。降りたとき、普通の雨は驟雨になってきた。それに加えて、寒かった。ブランにはドラキュラのモデル城になったお城がある。なぜかこのお城に行ったのかな!?と最初の疑いが沸いてきた。このブラン城は行かなくていいところだ。見学をしながら、スコットランド人のカップルが着いた。

眺望はよさそうが・・・

眺望はよさそうが・・・

ただブラン城がのってる山の山麓にある野外の農家博物館は面白いけど、雨がうざくて見学は楽じゃなくなった。ブラショフにもブランにも無数の野良犬がいると気づいた。犬も天気は嫌だなとの顔してた。もういいから、次の公共バスを待ってラシュノフへ進んだ。ラシュノフ城は山の上にあるから、遠くからわかりやすい。でも、最短の上りはわかりにくいから、私たちはある道路をたどって裏側から山を登った。もちろん、雨が降りながら。足にずっと前から「おい!水が漏るぞ!」と教えてくれて、びしょびしょだった。せめてラシュノフ城の外見ぐらいはいいことだ。昔のままのお城だから、見学するのはいい体験だった。見学をほとんど終わったとき、同じように濡れてるスコットランド人のカップルが到着して、ツアーにしたことを後悔して始めた。やっぱり自分で行くのはツアーより安くて早い。そしてマイペースでいける。
下りた後、小さいレストラン”Intim”(その意味は「性的さ」)という変な名前の場所に入っておいしいルーマニア料理を食べながら体が暖まってきた。バスでブラショフに戻った後にびっくりした。雨は今より強く降れるのは思わなかった。しかし、その通りだった。バスターミナルはアパートからかなり離れてるから、バスで行こうとしたけど、もちろんバスが来なかった。しょうがないからタクシーを呼んだ。メーターが付けてないタクシー。私たちはルーマニア語で「ありがとう」ぐらいしか知らない。相手も英語が通じない。着いた後に値段を聞くと、彼はただ肩をすくめて「適当に」のような身振りした。えっ!?自分で値段がわからないの?私は彼に80円ぐらい出すと彼は喜んでバイバイと言った。面白いタクシーだ。
午後中、ブラショフの旧市街の見学。本当だ!ドイツの古い町にいる感じがする。しかも建物の大部分はうまく保存されている。残念ながら、相変わらず雨が強い。日暮れに、アパートへ歩いて帰った。途中で醜いコンクリートの建物の中にあるレストランに入った。外から見ると安そうが、入るとちょっと高級だなと思った。高級っぽいが、そっちの料理はかなりまずくて油っぽい。まあ、その代わりに値段は高かった。唯一のハイライトは「ウオッカ・スターリン」という珍しい飲み物だった。

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 ルーマニア | ブラショフ | ブラン城 | ラシュノフ

第四日

ブラショフ → ブカレスト

大混乱しているブカレストの交通

大混乱しているブカレストの交通

実は私はシナイアの周辺にあるブチェジ山地へ行きたかった。しかし、相変わらず雨がざあざあと降って、雲は低いから何にも見えなかった。要するに山に入っても意味がない。しょうがないからブカレストまでの切符を買った。列車は中々混んでいて、切符売り場ではコンピューターがなくて色んな席は二回予約された。私たちの席もそうだった。列車には、無数のバッグパッカーがいてびっくりした。シナイアを通過したとき、車窓からどれぐらい望んでも雲しか見えなかった。それに加えて、外はめちゃめちゃ寒い。9月なのに。私たちは1時間遅れてブカレストに到着した。駅から出て、100メートル右へ行ってホテルを発見した。そのホテルはやや清潔で高くはないから丁度いい。お茶した後、最初のブカレストの散歩。雨が降りながら。この雨はいつ終わるんだろう。
ブカレストって・・・大混乱。渋滞。殺人的な交通。天気のせいだかもしれないけど、私は最初からこの大都市が好きじゃなかった。夜になると、ホームレスの少年たちはラッカーをクソクソ嗅いでらりって団体として駅の辺でうろうろして、治安が悪そう。ホテルで近くにはいいレストランがあるかどうかと聞くと、答えははっきりだった:いいえ。まだ雨が降ってたから、また外に行く気がなくて隣のホテルで夕食した。食べ物の量は少なくて、ルーマニア製のビールがなかった。その代わりに、オランダ製のハイネケンというビールがあった ― 小さいボトルは250円ぐらい。せっかくルーマニアに行ったのに。隣のバーに入ってみたが、そのバーは20時閉鎖する。うちのホテルのバーにはもちろん食べ物がなかった。駅前のホテルに泊まるのは確かに便利だけど、レストランもバーもないからあまり面白くないかも。

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 ルーマニア | シナイア | ブカレスト

第五日

ブカレスト

大喜び:雨が止まった!やっと!と喜んで、モルドバ共和国の領事館へ歩いた。領事館の前には警備員が立っていた。私は中に入りたいと彼に行ってみた。すると、相手は軽蔑的な顔して「お前は何でちゃんとした英語で聞かない?俺は英語できるぞ!」・・・「ごめんなさい、英語ができるのは征服に書いてなかった」。変な人。結局また誰かが中に入ってるから待ってくださいといわれた。ビザ代はルーマニアのお金でまたはユーロで払わなければならないのはわからなかったから、もうちょっとルーマニアのお金を下ろしたほうがいいと思って銀行を探した。みつけた後、また領事館に戻ってすぐ入った。インターネットの情報によって、ドイツ人も日本人もビザを得るためにただパスポートとお金が必要だ。しかし、それは明らかに嘘だ。領事の男の人は私のパスポートを見て、OK!と言ったが、日本人のお連れのパスポートを見たとき、「招待状ある?」と聞いて、「ないです」と答えたら、「じゃ、だめですね」と冷たく断った。ちょっと議論してみても意見が変わらなかった。ラスト・チャンスとして、ファックスで招待状を送ってもいいかと聞いて、「ファックスなら大丈夫」と領事が言って、領事館のファックス番号を教えた。

チャウシェスクの石化した誇大妄想

チャウシェスクの石化した誇大妄想

さて四つの課題があった。第一はテレホン・カードを探すこと。20番目の店にやっとテレホンカードがあった。第二はモルドバの国番号を調べること。ガイドブックがないので、それは中々難しかった。店の人に尋ねて、必死に調べてくれた。結果は次のようだ:モルドバは多分国番号がない。その代わりに、モルドバはルーマニアの電話網と繋がれて、地方番号は02だ。第三は公衆電話を探すこと。それは一番簡単な課題だった。しかし、電話の上に壊れたメロンが置いて、あまり入りたくなかった。第四は一番難しかった:モルドバの家族に電話する。招待状を送ってくれませんかと聞いてみたかったから。何回も色んな番号の組み合わせで電話しても、いつもルーマニア語のアナウンスしか聞こえなかったが、留守番のアナウンスじゃなかったらしい。しかも沢山の違うアナウンスがあると習った。しかし、家族はすごく田舎のほうに住んで(通りの名前がないぐらい小さい村)、絶対ファックスがないと思った。それに加えて、私はその家族に会ったことがないから、「大至急にファックスを送ってちょ!」と言いたくなくていつかギヴアップした。モルドバは来年も存在するから、来年でもいいだろう。または2年後。いつか。きっと。
さあどうしよう。ブカレストからなるべく早く逃げたいのははっきりだった。これからルーマニアを旅する?否、絶対いつかまたモルドバに行ってみるから、そのときにまたルーマニアへいけるんだろう。しかも天気が悪かった。しかし、新しいものが見たかった。ブルガリア?全部で四回旅した。トルコ?ちょっと遠すぎて、行ったばかりだからとりあえずそれでいい。セルビア?入国できるのかな。少し前、ドイツ人にとってはセルビアの入国はほとんど無理だった。マケドニア?マケドニア!綺麗というイメージ。しかもあまり遠くない。すると、やっぱりブルガリアを横断しなきゃ。そのため、まずジュルジュというブルガリアとの国境にある町までの切符を買いに行った。続いて、ブカレストを観光した。ばかでかい民族の館。統一広場。雨が降っても降らなくても構わずこのルーマニアの首都は綺麗じゃないと気づいた。チャウシェスクは一体この町に何を与えた?これは町づくりじゃなくて、ただ犯罪だ。狭い旧市街も大混乱している。しかし、沢山の古い建物は修復中で、いつかやや素敵な場所になるかも(今では考えられないけど)。ホテルの周辺は何もないから、夜に地下鉄で中心に戻って夕食をした。今回の夕食は本当においしかったが、比較的に高かった。周りには沢山のバーがあるので、出かけるためにいい場所だ。

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 ルーマニア | ブカレスト

第六日

ブカレスト → ジュルジュ → ルセ(ブルガリア)

かなり早く起床した後、私たちはベッサラビア駅という汚い地区にある駅へ歩いて、各駅停車でヴィデレというすごく鄙びた地方にある小町まで行って乗り換えした。そこから、ジュルジュという国境の町まで行った。終点の駅は町の中心ではなくて、畑の辺にある。10時半ぐらい着いた後、まずブルガリアのルセ市行き列車を調べた。それは午後2時半だ。駅前の妙な低級の酒屋に入った。中に座っている怪しい人物に「国境までは何キロぐらい」と訊いてみると、その人たちは議論して、結果として「3キロかな」と答えた。3キロなら全然平気で、ここで3時間ぐらい待つよりいいじゃないかと二人とも思って、線路沿いに歩いてはじめた。しかし、あるところには、路線がわかれるから、ちょっと躊躇して牛を構う男の子に聞いた。残念ながら、彼は「ブルガリア」という言葉さえわからなかった。地平線には町のような姿が見えたから、左の路線にした。数十分後その町の中心に着いた。

ここは本当に国境に近い!?(撮影:あきこ)

ここは本当に国境に近い!?(撮影:あきこ)

もう真昼だったから、いつか食べ物を買ったほうがいいかなと思った。然し、私は昼食を食べる前に国境通過点をみつけたかった。お連れは「まあ、昼食はいつかね」と言ったが、目が「お腹空いたよ〜っ」と通じた。中心部は小さくてよさそうレストランか屋台も見えなくて絶対レストランが全くない地区に入った。途中で、悪そうな人にも遇った。「そこへ行くと国境へ行けない!ご一緒に行って!」と入墨だらけの人が言った。続いて、「私は今ここでホテルを作るぞ」などを言った。絶対嘘だ。だから彼をできるだけ親切に追っ払って同じ道を進んだ。またいっぱい歩いた後、警備員に道を尋ねた。ニヤニヤしながら「後7000メートルだけ」と答えてくれた。まじっすか?「否、ごめん、700メートル」と馬鹿笑いして言って直した相手は何かおかしかった。私たちの前にはアヒルが歩いた。車が全然通過しない塵だらけの通りを1キロ、2キロ歩いた。国境は一体どこ!?お連れはずっと後ろに歩いて、絶対腹が立ってるからあまり振り返らないほうがいいかもと思った。いつか国境通過点が見えるようになった。周辺にはレストランも屋台も全くない。出国して、ドナウ川を渡った。ヨーロッパの最長の鉄鋼の橋だ。それは別にいいけど、今ではそれは要らない。車も来ないからヒッチハイクは無理で3キロぐらいの長さの橋を歩いて渡らなければならない状態だった。15時ごろ、やっとブルガリア側に着いた。結局列車より数分早かった。
ブルガリアを入国するのは数年前と比べてすごく楽で、全然無難だった。警備員は「今どこから来たの?」と尋ねて、私は「ルーマニアから」と答えた。数分後、何で相手はそのバカな答えを呑んだのかなと驚いた。ルーマニア・ブルガリアの国境でブルガリアを入国すると、もちろんルーマニアから来る!さあ、ああいうバカな質問はバカな答えを呼び起こした。外で、ずうずうしいタクシーの運転手が待ってた。「うざったい!」と言っても離らないタイプだった。国境通過点の前には両替所がないから、また国境に戻った。かなり太ってる、汗びっしょりの警備員はその両替所のレートは最低だと説明した。確かに。国籍を聞いた後、完璧なドイツ語で話してくれた。「ねえ、お連れはやばいぞ!すごく疲れたじゃん!」と言って、私は振り返って、「そうだね!」と確かめた。これからどうするんだろうと聞かれて、「まずバスでルセの中心に行きたいけど」と答えると、彼は「1ユーロあればバス代を両替してあげる」と提供した。それはありがたかった。タクシーの運転手はかなりがっかりした顔をみせた。
実は私はヴェリコ・タルノヴォまで行ってそこに泊まりたかった。ヴェリコ・タルノヴォは私にとってこの地方でかなり気に入ったところだから。しかし、もう遅いからそこまで行くのは無理だった。綺麗なルセの中心に着いたとき、もう旅窶れしてまずカフェでいっぱい食べた。そして「ご無沙汰のブルガリア万歳!」とか言って冷やしたザゴルカといううまいビールを飲んだ。ある旅行会社はプライベート・ルームを仲介してるおかげで、かなり優しいおばあさんの家に泊まった。短い休憩の後、小さいルセ市を観光した。小さいが、素敵な町だ。中央広場にあるきれいなレストランで沢山のおいしい食べ物を食べて、天気も良くなってきたから今までのこの旅行の一番いい夕べだったかもしれない。ブルガリア人は数年前より親切になったという印象が強かった。しかも、ブルガリアは相変わらずびっくりする物価が安いところだ。もう五回目ブルガリアにいるから、地元に帰った感じがした。

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第七日

ルセ → ソフィア

かなり発達してるソフィア

かなり発達してるソフィア

モルドバへ行けなかったので、第一目的地になったのはマケドニアで、私たちはルセでの一泊の後にバスでソフィアへ移動した。出発する前に暇が結構あったから、インターネットでドイツ人が勝手にセルビアへの入国できるかどうかと調べた。ごく最近できるようになったと後でわかった。というのは、マケドニアの後はもうルーマニア・ブルガリアへ戻らなくていい。それはいいニュースだった。そして外は晴れて、かなり暖かいだった。それもいいニュースだった。今考えると、ルーマニア=雨、ブルガリア=晴というまとめ。ソフィア行きバスは普通に大きいが、中には6人の乗客しかいなかった。それで儲かるのかな。途中でちゃんと休憩するための時間が沢山あった。全く知らない村で外に座ってコーヒーをすするのは恍惚とさせて旅の利点の一つ。それに加えて、バルカン山脈を越えるときには景色はすばらしいと確認した。
ソフィアでホテルをみつけるのは全然問題じゃなかった。ちょっと探した後、残ってたルーマニアのお金を両替する両替所もみつけた。天気が相変わらずよかったから、ソフィアを散歩するのは楽だった。ブルガリアの首都は大進歩して最後の数年間にちょっときれいになってきたと思った。夜になると、私たちはホテルのクルミの木がたくさんある中庭に座った。しかし、でかいクルミが爆弾のように上から落ちちゃったから、逃げたほうがいいと決めた。

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 ブルガリア | ソフィア

第八日

ソフィア → スコピエ(マケドニア)

一日中、二つのバスだけがソフィアからマケドニアの首都スコピエまで行くらしい。一つは朝早く、二番目は午後中出発する。午後中のバスで行くと、日暮れの後にスコピエにつく。だから朝のバスにした。要するに朝6時起きて、外に出た。まだ夜中だった。バスは時刻通り出発して、途中で小さい休憩所に止まって他の乗客とコーヒーを飲んだ。

ヨーロッパにある小イスタンブール

ヨーロッパにある小イスタンブール

バスは段々山の奥に入った。途中で、国境の通過点がある。皆が降りて、荷物を取って、自分の開いたままの荷物の前に整列させられた。ここは軍隊か。警備員はいろんな人の荷物を詳しく調べたけど、私たちのパスポートを見るとただ頷いて次の人に進んだ。マケドニア側で同じ劇になった。これは一体なに?ある乗客は私のほうに振り返って、「これについてどう思うか」と聞いた。「私はこういうゲームが大嫌い」と答えると、相手は「そうだね」とか言って、「この国境はヨーロッパの最低な国境だよ」などをもぐもぐ言った。
マケドニアというのは、山。そしてすぐ目立つのは沢山の読めなくなった銃の痕が多い道しるべ。午後1時ぐらい、私たちは首都に着いた。スコピエはブルガリアの町とかなり違う。スコピエというのは、もっとバルカン。もっと混乱。もっと本格性。お金を両替した後、食べ物を探しに行った。レストランは高い。ユース・ホステルも高い。町を見学するとき、流石大地震に破壊された町だと思っちゃった。中心部は精一杯に再建されたけど、無駄のプロジェクトが多くて、「一応再建された」という感じがした。しかし、要塞の跡やバザールの地区は最高だ。突然イスタンブールに行っちゃった気がした。夜にユースに近いレストランで夕食。そのレストランはうるさくてすごく混んでた。夕食としてはやっぱり焼いた肉が出た ― 流石バルカンだ。

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第九日

スコピエ → オフリド

スコピエは面白いが、数日間滞在するほど面白いといえない。しかも首都だから、スコピエは高い。一日間に三回ぐらいお金を両替する気がした。そのお金は一体どこに行ったのは謎だった。もういいから、オフリド湖というなかなか有名な湖と町へ進んだ。バス・ターミナルでは、すぐ年配のおじいさんが迎えに来て、親切に切符売り場などを案内した。彼はいい人らしかった。

オフリドで演歌♪

オフリド♪オ〜フ〜リ〜〜ッドゥッ湖♪

切符を買った後、まだ時間が沢山あったからお茶しようとして、彼も誘ってみた。要らないって。その代わりに、重病の妻、手術しなければならない子供などについての話が盛り上がった。なるほどそういうわけだったのか。大変そうねと答えると、彼は「でしょ!そして君は助けるためにどうすんの?」と言っちゃった。変な物乞いのやり方だな。もう数分ぐらいその話を聞いちゃったから、彼に数ディナールをあげた。こういう物乞いのやり方はちょっとエジプトぽっくて、私はそれが苦手だと確かめた。
オフリドへ行くあいだに、テトヴォという少し前紛争が勃発しちゃった町を通過した。ブーム中の町だ。背景には、でかい山脈が聳えて中々素晴らしい眺めだ。オフリドでバスを降りると、すぐ中年の男性が近づいてきて、1400円ぐらいのダブルを提供した。徒歩で10分だけ。彼は優しそうで、値段はOKだったから肯定した。突然、若者の男の人が跳んできて、「おれのペンションはもっと近いぞ!」と喧嘩を売ってみた。いいや。先んずれば人を制す。確かに急いで歩くと10分だけ。しかも彼の家の部屋はホテル・ルームより良かった。
オフリドを散策 ― この素晴らしいところは目を楽しませてくれるものだ。旧市街も大自然もすごい。オフリドはそんなに人気のある観光地だというのは全く驚くべきものじゃない。しかし、あるマケドニア人は「何で今オフリドに来たの?今では観光客がいないじゃん!つまらないでしょ!」という。全然。そのためい・まオフリドに来たぞ。しかもオフ・シーズンなのに、充分の観光客がいて、丁度太陽が山の奥に沈むときにボートで静かな湖を波立たされ、かなり騒いで邪魔だった。

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第十日

オフリド → 聖ナウム → オフリド → スコピエ

朝早く起きた後、バス・ターミナルへ歩いていって、ぼろバスでオフリド湖の南岸へ移動した。そこには、スヴェティ・ナウム(聖ナウム)というところがある。バスはまず湖岸のほうに止まって、全てのマケドニア人が降りた。続いて、蛇行している道路をたどってちょっと山のほうに入った。アルバニアとの国境通過点。終点。三人のバッグパッカーと私たちが降りた。アルバニアの国境か。行きたいなと思ったけど、荷物はオフリドに置いてあって、アルバニアに行く時間が残念ながら全くなかった。「また来るぞ!」とアルバニア方面へ言った後、歩いてマケドニア人が降りた場所へ戻った。また歩いた。お連れは本当にかわいそうと思った。聖ナウムというのは、きれいな僧院だ。そして沢山の土産の店と観光客。それを見学した後、またオフリドに帰った。スコピエ行きバスの出発までは時間が沢山あったから、まず昼食した。そしてかなり早いバスでまた首都に戻った。そこから、夜行でセルビアへ行く予定だったが、列車は夜中に出発するから、またスコピエを見学する時間がいっぱいあった。

Pogradec in Albanien

見てよ!アルバニア!行きた〜い!!!

微妙に日本っぽい中央駅で、残ったマケドニアのお金を両替したかったけど、銀行も両替所もなかった。その代わりに、構内の大きいバーをみつけた。そこでタバコを買うとき、ウエイターは財布にいっぱいの違う国の貨幣を隠してると見た。「両替できるの?」と聞くと、彼は「もちろん!何がある?そして何がほしい?」と答えた。「1000ディナールあるけど。できる限り、ユーロがいい」。しかし、彼は10ユーロだけ持ってた。「その代わりにカナダの20ドル持ってるけど」。カナダ?いらないじゃん!そして偶然にセルビアのお金をみつけて、1000ディナール(約15ユーロ)の代わりに10ユーロ(全部はギリシアのコインだった)とセルビアの300ディナールをもらった。うん、それは正当な両替だった。ある人は駅で、セルビアではユーロしか使えないと言ったけど、それでもちょっとセルビアのお金がほしかった。しかも、セルビアではユーロはもう全然使われてないと後でわかってきた。
ギリシアのサロニカからの列車はほとんど時刻通り着いた。乗客があまりなかったから、快適な移動になりそうだった。車掌はすごいチェーン・スモーカーだったけど、かなりいい人だった。私たちは寝台の車室を選んで、他の乗客が入ってこなかった。出発の二時間後ぐらい、セルビアとの国境に着いた。マケドニアの出国は全然平気だったけど、セルビアの警備員はやや厳しくて、尋問を始めた。 “Where to?” – “Belgrade”. “Why?” – “sightseeing” – “why Serbia?” – “…” 等など。しかし、それはすぐ終わって、結局問題なくセルビアを入国できた。

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第十一日

スコピエ → ベオグラード

久しぶりに列車の中で熟睡した後、朝7時半ぐらいベオグラードに到着した。ここはバルカンじゃなくて、中央ヨーロッパだという最初の印象が強かった。そんなにスコピエから離れてないのに全く違う雰囲気だ。駅でコーヒーを飲んで、まずホテルを探した。一番目のホテルは満室だった。

ベオグラードのカレメグダンの要塞

ベオグラードのカレメグダンの要塞

二番目は高すぎた。三番目はちょうどよかったけど、早すぎたからチェックインはまだできなかった。だからまず散歩した。この町はびっくりするほど明るくて、想像したものと全然違う。チェックインする前、かなりいっぱい見えた。チェックインしたとき、ちょっとがっかりした。ホテルの正面は綺麗だけど、私たちがもらった部屋は中庭の灰色の建物の中に入って、ゴキブリ付きだった。まあ、もっとひどいホテルに泊まったことがあるからとりあえずそれで充分。その後、また散歩した ― ベオグラードの要塞の跡、芸術家の地区などは本当に面白くて、市民たちはかなり優しい。要塞の堀には沢山の戦車などが置いてあって、うるさいガキが戦争ごっこをして、プラスチックの銃で私たちのほうに向いて「パーン!パーン!」と叫んだ。私は敏感すぎるかもしれないけど、私はそういうことを特にセルビアで見たくない。
かなり探した後、やっと要塞の隣にある戦争の博物館を見つけた。中から、戦争の歌のどよめきが出てきた。テープからじゃなくて、ライブだった。背が高くて強そうな人が近づいてきて、「今日は開いてねぇよ!帰れ!」のように”親切”に話しかけた。しょうがないな。あちこちに歩くと、突然空爆された大きい建物を見つけた。ナトーの三ヶ月の無休空襲の址。それ以外は、この町は4年前戦争中だったのは考えられないことだった。
夜になると、ホテルの隣にあるレストランで夕食した。ウェーターはかなり親切で、料理も中々おいしい。料理はもちろん焼いた肉だった。実は焼いた肉はもういいけど、ここはおいしかった。

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第十二日

ベオグラード → ノビサド

毎日毎日移動するから、いつか五体を休めたい希望が強くなってきた。計画したように本当にモルドバへ行ったら、落ち着いた旅行になるはずだったけど、計画を変更したからどこでも少しだけ滞在できる。今日は例外だった ― ベオグラードからノビサドというボイボジナの州都へ行くから、二時間しか列車にいなかった。ノビサドで列車を降りた後、まずすごく考えてた。どうしよう。ハンガリーへ進むかここに残るか。駅の周辺を見ると、あまり面白くないだろうと思った。しかし、これからハンガリーへ行くと、かなりストレスになると考えて、一泊しようとした。

ペトロワラディン要塞と橋の址

ペトロワラディン要塞と橋の址

最初にホテルを探したけど、安宿をみつけれなかったからツーリスト・インフォメーションへ向かった。そこで、まず数キロの無料の町についての資料をもらった。相手はかなり暇っぽくてかなり張り切っていっぱい説明した。そこでホテルを探して、かなり助けてくれたけど、やっぱり安宿がないと後でわかった。選んだ場所はまあまあ高くて、まだ大丈夫だ。一回だけちょっと普通より払っていいじゃないかと思った。ノビサドはすごく賑やかな所で、アイスクリーム・シティーだといえる。どこでもアイスクリームがあって、市民たちはどこでもアイスクリームをなめながら歩いてる。ノビサドのドナウ川の対岸にある要塞や市内の歩行者専用通り、ナトーに破壊されたドナウの橋などなど ― この町に泊まったのは全く後悔しなかった。戦後のベオグラードとノビサドでは状態はそんなに早く再び正常に戻ったのは信じられなかった。しかし、私たちは短くだけそこにいて、本当の状態をあまりわからないだろう。
焼いた肉は本当に十二分食べたから、無数のイタリア料理のレストランに入りたかった。パスタとカルパチオ ― 本格的なイタリア料理だった。しかも焼いた肉じゃなくてよかった。

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第十三日

ノビサド → ジョール(ハンガリー)

ずっとバスが来なかったから、駅に着いたのは本当にぎりぎりだった。もう切符を買ったから、間に合わないと高くなるんだろう。列車には乗客がほとんどいなかった。ただ私たちが予約した車室は混んでた。お金を使って予約を取ったにはバカだった。スペースが沢山あるから、もちろん誰もいない車室に移動した。ハンガリーの国境はかなり近いから、あっという間に国境に着いた。出国は全然平気だった。ハンガリー人も相変わらず親切だったけど、色んな警備員はまずドリルを使って何かを探すために列車を部分的に解体した。
途中でお腹が空いてきたから、列車のレストランに入ってみた。そのレストランはオーストリアのだった。メニューはオーストリアっぽくて、とても高かった。それにもかかわらず有名なウィーナー・シュニッツェルという伝統的な子牛のカツレツを頼んでみた。頼んだ後、キッチンから「トン・トン・トン」という音が出した。なんだろうなと思って、見ると、コックはお肉をハンマーで叩いて柔らかくするとわかった。そして新鮮な卵でパナーデを作った。すごいな。ドイツまたは他の国の車内のレストランなら、コックは食べ物をただチンするけど、ここは違った。比較的に高かったけど、その代わりにちゃんとできたオーストリア料理だった。ハンガリーについたばかり、久しぶりに雨が降ってはじめた。ブダペストを経由したけど、二年前ブダペストに行って、そしてそんなに時間がなかったからもっと小さい町に泊まりたかった。だからジョールというローマ字の地名を見ると誰も読めない小町へ進んだ。着いたとき、もう午後5時だった。しかし、駅前に国立鉄道会社が経営するホテルがあるから、ホテルを探すのは一分しかかからなかった。あまり綺麗じゃなかったけど、安かった。ああそう、久しぶりゴキブリがいなかった。多分。もう日暮れだったから、町を見学する時間は少なかった。それでもわかったのは、ジョールの旧市街は素晴らしいということだった。中世期とオーストリア・ハンガリー様式の旧市街で、一つのぼろぼろしてる家屋もない。夜にレストランに入ったとき、突然ドイツ語だけが聞こえた。オーストリア人。無数のオーストリア人。確かにオーストリアは近くて、オーストリア人にとってはハンガリーはすごく安いから日帰り旅行する人が多い。色んなオーストリア人は店の人に対してずうずうしくてうるさい。まあ、ドイツ人もよくチェコでそういうふうに振舞う。万国共通かなそれは。しかし、ウェーターにハンガリー語で「ありがとう」というと、相手は喜んで突然かなり親切になった。簡単だろう。

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第14日

ジョール → タボール(チェコ)

残念ながら、ジョールから簡単に列車でスロバキアまたはチェコへいけない。そのため、今回はウィーン経由にチェコへの入国することにした。各駅停車なら、ジョールからウィーンまで2時間ぐらいかかる。国境はもちろん全く問題ではない。ウィーンに行くのは初めてだ!ドイツに近いのに。オーストリアを何回も通過したのに。切符売り場で聞くと、チェコ方面行き列車は全然違う駅から出発すると聞いた。だから都心を横断しなきゃ。トラムは一番早いから、トラムでウィーンの長短観光した。本当に印象的な町だなと車窓から望んだときに何回も思った。あの建物は華麗だね!と思って、次の建物はもっと綺麗。次も前の建物より綺麗。などなど。しかし、ウィーンを見学するためには少なくとも一週間は必要だと気づいた。一時間しか暇がなかったから、しょうがなくてトラムを降りず駅へ行った。
そのフランツ・ヨーゼフ駅の傍には和風のレストランがある。そのレストランの名前は「あかきこ」。一体どんな意味!?デザインは近代的で、おしゃれっぽい。好奇心だから、ちょっと入ってみた。サラリーマンだけが中にいてまずそう寿司とお弁当を食べた。スタッフはかなりしつこくて絶対日本人じゃなった。ベトナム人かな?と思った。確かに中華料理より儲かるんだなと確認した。まずそうで高かったからやっぱりそこに食べなかった。
私はドイツ人がよくオーストリアで間違ってることをやる:コーヒー(ドイツ語でカフェ)を頼むという絶対失敗になること。頼むと、「カフェ?何のカフェ?メラーンジ?モッカー?短いカフェ?長いカフェ?もっと詳しく言わないとわからないんですよ!」という長いスピーチが始まった。意味はあまりわからないから、”長いカフェ”(ただ大コップという意味らしい)にした。そして列車でグミュンドというチェコとの国境にある町へ行った。そしてチェコを入国した。今年だけなら、5回目だった。国境の警備員はそろそろ私の顔を覚えてるはずだなと思った。タボールというプラハの南にある小町に泊まろうと決めた。ヤン・フスという宗教革命者が居住したという中々有名場所だ。旧市街は駅からやや離れている。中央市場から一分だけ離れてる横町には、ペンション・アルファというきれいな宿泊所がある。安くて、雰囲気がいいペンションだ。荷物を置いた後、タボールの旧市街を見学して、美味しいチェコ料理を楽しめた。チェコってやっぱり最高だ。

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第十五日

タボール → ハレ(ドイツ)

朝早く起床した後、まずプラハ、そしてドレスデンへ行った。この旅行では、ほとんど全部列車で行ったけど、遅刻したのはあまりなかった。だがしかし、今ドイツの鉄道会社の影響範囲に入ったから、遅刻しないのはもう続かないと予想した。ICEという特急でドレスデンからライプツィヒまで行くはずだった。ライプツィヒに着いて、20分後違う列車でハレへ行くはずだった。は・ずだった。特急はずっとホームで待ってたけど、技術的な理由から動かなくて、30分以上遅刻した。しかも、中はすごく汚くて、どこでも前の乗客のゴミが置いてあった。じゃあさあ、遅刻するあいだに列車を片付けば?やっとライプツィヒに着いたとき、次の列車はもちろん待たなくてもう出発しちゃった。それに加えて、アナウンス、時刻表とホームに書いてある目的地は全然一致しなかったから、「ハレ行き」が書いてあるホームで列車に入った。途中で、車掌が来て切符を見ながら「えっ、どういうふうにハレ行きたいの?間違ってるじゃない?」と言った。目的地を聞くと、確かにそうだった。だから次のやや大きい町まで行って、そこでほぼ一時間次のハレ行き列車を待って、2時間半の遅れでハレに着いた。私はドイツの鉄道会社のことで本当に恥ずかしく思う。

かなりしんどいツアーだったけど、いった場所は全部面白かった。やっぱりバルカンが好き。しかもモルドバは近い将来に・・・

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