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ハレの歴史
「ハレ」という名前はいったいどういう意味なのか?
ドイツ語では、「ハレ」(Halle)の意味は「ホール」だが、この地名と関係がない。
古代ギリシア語では「háls」という言葉があって、その意味は「塩」だ。続いて、
ケルト語には、そういう言葉が「hallas」になって、その意味は「塩を作る場所」だ。
ハレには、地層があって、その地層のおかげで塩水が湧く。昔のヨーロッパには、
海から離れている場所では塩は大切な原料であったので、この町は繁栄した。
ザーレ川沿い住んでいた人たちは塩水を泉からザーレ川にあった建物まで運んで、水を蒸発させた。
現在には、→製塩博物館で一ヶ月に一回昔の塩の作り方が見える。
806 年に、文献にはじめて ハレという 名が 出た。この辺りに昔の要塞があったと言われている。 その要塞は→ギービヘンシュタインと 呼ばれ、廃墟が残っている。しかし、ハレは町になったのは984年であった。 1281 年頃、ハレはハンザ同盟に加入した。1418年から1506年まで、今でも見える マルクト上の赤い塔(Roter Turm)というそのときまでドイツの唯一の教会がつけていない塔が 築かれた。1500年頃、→モーリツ城(Moritzburg) はマクデブルクの大司教の所在地として建築された。 16 世紀にキリスト教の宗教改革がハレにも導入された。1694 年7月12日に ブランデンブルグ選帝侯の3代目のフリードリッヒによってハレ大学が開校された。 1690 年代に A. H. フランケという人物がハレに来て、ハレ大学で神学を教え、 フランケという名が付いている少年のための施設を設立したと言われている。 1817 年にはハレ大学がヴィッテンベルクの大学と統一され、 ヴィッテンベルクでの教育は終了した。19世紀後半、産業化が進行し、 ハレ周辺では亜炭の採炭や機械製造が中心となった。同じ頃、ハレ市の人口も10万人を越えた。 第2次世界大戦中、ハレ市はあまり破壊されなかった。 そのため、中央部には歴史的できれいな建築が多く残っている。 社会主義時代にハレという町はハレ市にちなんだハレ県の県庁所在地になり、 化学産業の中心の一つとして発展したのである。 1990年、すなわちドイツ統一の後ハレ市とその隣のハレ・ノイシュタットという 衛星都市が合併されたので、現在のザクセン・アンハルト州では最大の町になった。 |