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サラエボは三つの顔があるといえるし、その三つの顔は多少とも戦争の影を背負っている。
一つは古くてトルコ風のサラエボで、その Baščaršija(バシチャルシャ)という地区には
伝統的なバザーや狭い横町などがある。すぐ隣には特にミリャツカ川の北岸沿いにハプスブルク家の華麗なサラエボが
広がっている。三番目の顔は西方行きメイン・ロード沿いの近代的なサラエボだ。そこには、特に
UNIS ビルのツイン・タワーが目立っている。トルコ風の地区とハプスブルク家風の地区には
戦争によるの損害がだいたい見えなくなってきた。
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ラティンスキー橋:第一次世界大戦の起点
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中心の南方には色々な橋がある。その内、有名な Latinski (ラティンスキー)橋、旧プリンツィプ橋という
名所がある。その橋は1914年のサラエボ事件の現場で、セルビア人の暗殺者がオーストリアの大公を射殺して
その橋を第一次世界大戦の起点にした。しかしプリンツィプという暗殺者は在ボスニアのセルビア人なので、
サラエボが包囲されたときに市民たちがセルビア人を卑しんで橋の上にあったプリンツィプ記念銘板を川に落とした。
緑が多い小川の南岸沿いに散歩するのはお勧めだ。散歩しながら、北側に並んでいるハプスブルク時代の華麗な建物が
見える。中心部に向かい合っている丘が多い Skenderija(スケンデリヤ)という地区もお勧めだ。
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川沿いのハプスブルク時代の建物
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その華麗なハプスブルク時代の建物の内、町の博物館、国立劇場、そしてもっと東のほうでオーストリア・ハンガリー帝国の
素晴らしいNarodna Biblioteka(国立図書館)がある。もっと西へ
ul. Mula Mustafa Bašeskija(バシェスキヤ通り)というメイン・ロードをたどると、数百メートル後
町の中心に入る。そこには、聖火というずっと燃えている炎がある。
バシェスキヤ通りと平行して南に Ferhadija Sarači(サラチ通り)という
高級の店などが並んでいる歩行者専用通りがある。
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ローマ・カトリック大聖堂
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市内を歩くと、神殿の多様性が目立つ。仏教のお寺は(まだ!?)ないが、それ以外は何でもある。
正教会とカトリック、プロテスタント教会、様々なモスクと古いシナゴーグなどがある。要するにサラエボにいる間には霊魂の救いは
全く問題ではない。特に目立つのは二つの塔のある Rimokatolička Katedrala(ローマ・カトリック大聖堂)
という歩行者専用通りに面する教会だ。それ以外は歩行者専用通りに様々なブティックや路上カフェーなどがあり、かなり
賑やかな地区だ。この辺を歩くと、ごく最近に酷い戦争があったのは信じられなくなる。
他の神殿と教会はその周辺に密集して歩きやすい。それに加えて、Tržiste(青空市場)という
小さい市場がある。その市場昔にも現在にも賑やかで、1994年2月5日にも人が普通に多かった。が、突然セルビア人が
撃った砲弾が市場の真中に落ちてしまい、全部で68人の一般市民が亡くなった。その攻撃の画像はどこでもニュースで見られたが、
効果がまず全くなかった。
サラエボの一番真中には上述の聖火がある。その「永遠の炎」とも呼ばれているモニュメントは第二次世界大戦
の犠牲者に捧げられている。そこからもっと西方へ進むと、道路の名前が変わって
ul. Maršala Tito(将帥チトー通り)になる。その通は結局広い
Zmaja od Bosne(ズマヤ・オド・ボスネ大通り)へと通じる。 その大通りはサラエボの大動脈といえ、
車やトラムなどが多い。駅の近くには歴史博物館と国立博物館がある。それに向かい合っている場所にはモダンな
Twin-Tower UNIS (Unis ビルのツイン・タワーが立っている。戦争のとき、そのビルは砲弾で穴だらけになって
サラエボの包囲のシンボルになったといえる。2001年にそのビルは工事中であったが、その修理はきっと終わったと思う。
隣にはツイン・タワーと同時に修復された黄色い Holiday Inn というホテルがある。戦争のとき、そのホテルは
唯一の営業中の宿泊所であったので、ジャーナリストが泊まるところになった。しかし戦線は南へ300メートルぐらいしか
離れなかったので、ホテルはよく的になった。
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Hrasno(ハラスノ)の痕だらけの住宅地
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ホテルの後ろでトラムの線をたどると、すぐ駅とバス・ターミナルがある。駅を通過してもっと北方へ進むと、
山と丘が始まる Koševo(コシェヴォ)という地区がある。そこには1984年の
オリンピック競技場などが密集している。それに加えて、スタジアムもあるが、今ではその辺は終わりのなさそう白い十字架が
立っている墓地になってしまった。スタジアムのグラウンドにも犠牲者が埋葬された。
上述の大通りをずっと西へ歩くと、数キロ後サラエボの国際空港に着く。包囲されたとき、空港の下のトンネルは唯一の
外界との繋ぎであった。その為、そして通りの幅が広いので、周辺の山脈を基地にしたセルビア人はよく
その通りを攻撃して、無数の人を射殺した。その理由でメイン・ロードは
Sniper's Alley(スナイパー大通り)というあだ名をもらった。渡るときには走るしかなかった。
同じことは橋についてもいえる。一つの橋は Vrbanja(ヴルバニャ)橋と呼ばれて、橋の上に
医学の女子学生が射殺された。彼女は多分ボスニア戦争の最初の犠牲者であって、そのため記念銘板が付けられた。
サラエボは包囲されたばかりではない。ミリャツカ川の南岸の一部は在ボスニアのセルビア人の領域であったので、
市街戦もあった。それは特に Grbavica・Hrasno(グルバヴィツァとハラスノ)という南西にある
住宅地で見える。様々な大きい住宅のビルは戦場になった。そのとき、セルビア人がここに住んでいて、引き上げたときに
焦土戦術をかけた。現在にも特にグルバヴィツァのほうで閉鎖されている地区がある。痕だらけハラスノ住宅地は
日常生活に戻ったが、外見は珍しい。写真のビルの地下には、モダンな喫茶店が入っているが、上のほうの砲弾の痕が多い
アパートを見ると変な感じになる。当然ながらその二つの地区は修理中で、戦争の痕はなくなりつつ。
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