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スチャヴァの歴史はかなり長くてこの町が繁栄した時代もあったが、それの証があまり残らなかった。
14世紀に初めて記録に現れたスチャヴァは1388年〜1565年までモルドヴァの都であり、その上に
ウクライナの大都市→リヴィウとオスマン帝国の都
→イスタンブールの間の通商路の大切な
中間市場であった。そのとき、モルドヴァの国民英雄 Ştefan cel Mare (シュテファン大公)
はよくスチャヴァとその周辺にいた。シュテファンは1457〜1504年まで生きていて、モルドヴァの
黄金時代の保証人であったといえる。1565年以降、トルク人はモルドヴァを支配した。1775年に
ハプスブルク家のオーストリア帝国はブコヴィナ全体を占領した。その為、モルドヴァの首都はスチャヴァから
→Iaşi(ヤシ)へ遷都された。1918年以降、スチャヴァとブコヴィナ全体は
新しく創設されたルーマニアの一部になった。
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Cetatea de Scaun a Sucevei ― スチャヴァの奇妙な要塞の址 |
都であったスチャヴァには当然ながら強い要塞があった。その要塞は旧市街に向き合っている丘の上に立っている。
要塞はルーマニア語で Cetatea de Scaun(町の要塞)と呼ばれ、1388年に建築されたものだ。
33メートルの高さと4メートリの厚さの外壁は深い壕に囲まれ、トルコの攻撃さえ耐えた。この要塞はあらゆる点で
塁壁だが、実は中は非常に小さい。残念ながら、この要塞は1675年に二番目のトルコの攻撃の後に爆砕され、
丁度100年後ハプスブルク家の軍隊に平らにされた。1944年以来、要塞は部分的に再建された。
外壁沿いには白い線がある。それの意味がうまくわからないが、1944年以降再建された部分を表す
可能性がある。入場料は15,000レイで、要塞からスチャヴァ市の眺めは素晴らしい。
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フレスコが褪せてしまった聖ドミトル教会
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町の中心には王子宮殿の廃墟が見える。見えるはずだ。この15世紀の建物は崩壊されたので、
土台しか見えない。それに加えて、その領域は完全に建設現場の板囲いに囲まれているので何も見えない(2004年現在)。
その場所から、近い Biserica Sfântu Dimitru(聖ドミトル教会)が見える。その教会は
1535年にビザンチン様式で作られた教会の外壁は完全に壁画に覆われ、スチャヴァに近い
→Cinci Mănăstiri(五つの修道院)に似ているが、ドミトル教会の
壁画はほとんど完全に褪せてしまった。
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スチャヴァは酷い郊外に悩んでいた
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教会の壁画が褪せた一つの理由は大規模な公害。スチャヴァ川の川谷にはものすごく大きいコンビナートが
立っている。その内、現在にも動いている製紙工場がある。その工場から、数トンの排出ガスや繊維などが
出た。今では、環境状態はやや改善してきたが、それでも空気が悪いとすぐわかる。社会主義時代には
スチャヴァはヨーロッパの一番環境汚染がひどい町の一つであった。
→四日市と同様に、スチャヴァ病
という町の名前をもらった公害病が発生した。
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